第8話:静かなる契約完了と、熱の残滓
第8話:静かなる契約完了と、熱の残滓
氷穴の中は、まるで時が止まったかのように静かだった。
ジーンの【撥水】によって完璧に維持された、摂氏二十度・湿度五十パーセントの絶対安全圏。外で吹き荒れる猛吹雪の音すら、遠い世界での出来事のように思える。
ジーンは岩肌に背を預け、浅く規則正しい呼吸で目を閉じていた。
彼の肉体は、自重の数十倍に及ぶ積載物の運搬と、セレスへの「極限のオーバーホール」を終えたばかりだ。筋肉の深層に蓄積した微細な疲労物質を、彼自身の代謝システムと【撥水】のフィルターを用いて、極めてロジカルに分解していく。
その顔に疲れの色はなく、ただ「今日の業務を終えたエージェント」としての無機質な静寂があるだけだった。
だが、彼から少し離れた場所で毛布に包まっているセレスの心は、決して静かではなかった。
(……眠れない)
セレスは毛布を口元まで引き上げ、暗がりの中でジーンの輪郭を盗み見ていた。
右足首の痛みは、跡形もない。それどころか、彼の「魔法のような指先」によって、長年の戦いで凝り固まっていた下半身の筋肉が、芯から解きほぐされている。
極上のスパを受けた後のように、体が軽く、内側からポカポカとした熱が湧き上がってくる。
だが、その熱の正体は、物理的な血行促進だけではなかった。
(……あんなに、あんなに優しく私に触れておいて……)
彼の、分厚く、乾燥した革手袋の感触。
自分の足を、絶対に傷つけてはならない国宝級の美術品のように、恐ろしいほどの集中力でメンテナンスしてくれた、あの横顔。
思い出すだけで、鎖骨の窪みにじんわりと汗が滲み、腹部の奥がキュッと甘く締め付けられる。
なのに、当の本人は、まるで「刃こぼれを直しただけの職人」のような顔をして、自分を一瞥もせずに眠っているのだ。
女としてのプライドが傷つくのと同時に、自分の中に生まれた、彼に対する得体の知れない『執着』と『庇護欲』が、セレスの理性をドロドロに溶かしていく。
(……この人は、自分から何かを欲しがったりしない。他人に甘える方法を知らない。……私が、教えてあげなきゃ)
セレスは、毛布の中で自らの体を強く抱きしめた。
氷の天才剣士と呼ばれた彼女の冷たい心は、この泥臭く不器用な男が残した熱の残滓によって、完全に、そして後戻りできないほどに狂わされていた。
◆
翌朝。
吹雪は完全に止み、フロストグラードの雪山に、鋭く冷たい朝日が差し込んだ。
下山ルートは順調そのものだった。
ジーンの【撥水】による摩擦のキャンセルと、昨晩の完璧なオーバーホールのおかげで、セレスの足取りには微塵のブレもない。
やがて、眼下にフロストグラードの巨大な氷壁が見えてきた。
街の入り口には、今回の討伐依頼の仲介役であるギルドの職員が数名、馬車を用意して待機している。
「……目的地への到着を確認。これで、俺の運搬業務は完了だ」
ジーンは立ち止まり、背負っていた巨大な荷物袋を、一切の音を立てずに雪の上に下ろした。
その気怠げな三白眼は、達成感も別れの感傷もなく、ただ「納品書にサインを求める」ような冷徹さでセレスを見つめた。
「雇い主。契約に基づき、荷物とあんたを無傷で届けた。……残りの報酬は、ギルド口座へ振り込んでくれ」
ジーンは短くそれだけを告げ、踵を返そうとした。
彼にとって、この国でのタスクは完全に終了した。次は、南の商業都市から来ている指名依頼へ向かうため、ルートの再計算を始めなければならない。
別れの挨拶など、彼というシステムには組み込まれていなかった。
「……待ちなさいよ」
セレスの声が、冷たい大気を震わせた。
ジーンが振り返る。
セレスは、雪を踏みしめ、彼との距離を詰め――その、分厚いコートの胸元を、両手でギュッと力強く掴んだ。
「……荷物の損傷か? 俺の目視ではエラーは見当たらなかったが」
ジーンが大真面目に物理的な異常を疑う。
だが、セレスの青い瞳は、潤み、怒り、そしてどうしようもない熱情を孕んで彼を睨みつけていた。
「違うわよ、このバカ……ッ!」
セレスは、耳の先から首筋までを真っ赤に染め上げ、泣き出しそうな声で叫んだ。
「あんたは、私の足首の『古傷』を直したって言ったわね! 一度のメンテナンスじゃ完治しないって……術後の経過観察が必要だって、昨日そう言ったじゃない!」
「……ああ。理論上、筋組織の完全な定着には定期的な調整が不可欠だ」
「だったら……っ!」
セレスは、ジーンの胸元に顔を押し付けるようにして、さらに強く彼のコートを握りしめた。
もはや、貴族の意地も、氷の剣士としてのプライドもない。
そこにあるのは、初めての恋に落ち、彼を誰にも渡したくないと願う、一人の女の子の我儘だった。
「だったら、私についてきなさいよ! 私の足を、私の体を……ずっと、あんたが管理しなさいよ……ッ!!」
雪山に響く、切実で、痛いほどの独占欲。
それは、誰がどう見ても、不器用すぎる「愛の告白」そのものだった。
だが。
ジーンの三白眼は、その熱烈な言葉を受け止めてなお、全く揺らいでいなかった。
(……なるほど。自己のコンディション管理を、引き続き外部委託したいという提案か。確かに、彼女の稼働率を維持するためには合理的な判断だ)
彼の脳内の『恋愛バグ』は、彼女の決死の告白を、見事なまでに「長期メンテナンス契約のオファー」として変換していた。
「……悪いが、それはできない」
ジーンは、極めて事務的な、冷たい声で即答した。
「え……?」
「俺のスケジュールは、すでに次の依頼で埋まっている。一つの機材に固執し、全体の物流システムを滞らせることは、俺のプロトコルに反する」
ジーンは、セレスの白い手を、自身を傷つけないように優しく、しかし確固たる力で自らの胸元から引き剥がした。
「あんたの足のデータ(カルテ)は、ギルドに引き継いでおく。他の職人でも対応可能なレベルには調整しておいた」
それは、一流の職人としての、完璧すぎる「引き継ぎ業務」だった。
だが、セレスにとっては、心臓を素手でえぐり出されるような絶望的な拒絶だった。
「……っ、ジーン……!」
ジーンは、呆然と立ち尽くすセレスに背を向け、泥に汚れたブーツで雪を踏み出した。
「……お前の剣筋は、悪くなかった。メンテナンスを怠るな」
それだけを言い残し、彼は一度も振り返ることなく、猛吹雪の止んだ銀世界を歩き去っていく。
後に残されたのは、彼が与えてくれた「痛み一つない足」と、「どうしようもなく疼く胸の熱」を持て余した、氷の剣士だけだった。
(……絶対に、逃がさない。あんたのバグは、私が直すんだから……ッ!)
セレスは、遠ざかる彼の背中を、狂気的なまでの熱を帯びた瞳で見つめ続けていた。
その日、氷の軍事国から、かつて最強と謳われた天才剣士が一人、姿を消した。




