第7話:完璧なオーバーホールと、機能不全の肉体
第7話:完璧なオーバーホールと、機能不全の肉体
標高二千メートル。
猛烈な吹雪は止んだものの、外気温は依然としてマイナス十五度を下回っている。
急峻な雪山の斜面を、二つの影が下っていく。
ザクッ、ザクッ。
雪を踏み抜くセレスの足取りは、先ほどの死闘を経た後とは思えないほど軽やかだった。
だが、その肉体内部では確実に「エラー」が蓄積し始めていた。
(……呼吸の浅化。心拍数の微増。大腿四頭筋の収縮速度に、コンマ二秒の遅延が発生している)
セレスの斜め後方を歩くジーンの三白眼は、彼女の歩行フォームを「稼働中の精密機械」として冷徹にスキャンしていた。
氷の巨獣との戦闘において、セレスは自らの限界を超える出力を叩き出した。
ジーンの【撥水】によって関節の摩擦係数はゼロに保たれ、【圧縮】によって自重によるGは相殺されていたものの、筋肉そのものが消費したエネルギーまでゼロになるわけではない。
急激なATP(アデノシン三リン酸)の枯渇と、筋繊維の微細な断裂。
放っておけば、数時間後には猛烈な遅発性筋肉痛と筋膜の癒着が彼女の機動力を奪うだろう。
(……メンテナンスが必要だ。納品前の商品は、常に完璧な状態を維持しなければならない)
ジーンにとって、セレスは「護衛対象」でも「美しき雇い主」でもない。
無傷で山麓まで運ぶべき、国宝級の『荷物』である。
「……セレス」
ジーンの低く平坦な声が、凍てつく空気を震わせた。
「えっ……? な、なに……?」
突然名前を呼ばれ、セレスの肩がビクッと跳ねる。
先ほど「私の足の調子を見なさいよ!」と自ら叫んでしまった手前、彼女の顔は雪山に似合わないほど真っ赤に火照っていた。
心臓が肋骨を内側から叩き、血液が沸騰するような熱を帯びている。
「……日没が近い。本日の行程はここまでとし、前方の氷穴で野営とする」
「あ……うん、わかったわ」
セレスが安堵と緊張の入り混じった息を吐き出す。
だが、ジーンの言葉はそれだけで終わらなかった。
「……到着次第、ただちに右足関節の術後ケア、および下肢全体のオーバーホールへと移行する。準備しておけ」
オーバーホール。
その響きに、セレスは息を呑んだ。
つまりそれは、再び彼のあの大きく、分厚く、魔法のように正確な手が、自分の素肌に直接触れるということを意味していた。
◆
氷穴の中は、外の暴風を遮るだけで随分と静かだった。
ジーンが【撥水】のスキルを展開し、空間内の冷気と湿気を完璧に弾き出しているため、内部の気温は常に摂氏二十度、湿度五十パーセントという極上の居住空間に保たれている。
セレスは岩肌に腰を下ろし、硬く目を閉じていた。
彼女の右足からはすでにブーツが脱がされ、白く滑らかな素足が、氷点下の山中とは思えない無防備さで投げ出されている。
「……始める」
事務的な宣言と共に、ジーンの分厚い革手袋がセレスの足首を包み込んだ。
「ひゃっ……!」
思わず、セレスの口から小さな悲鳴が漏れる。
革のザラついた感触と、彼の手から伝わる微かな体温。それが、彼女の脳幹を直接撫で上げられたかのような強烈な電気信号となって、脊髄を駆け上がった。
(……異常なし。だが、足底筋膜に極度の過緊張が確認できる。距骨のポジションにも、ミリ単位のズレが生じているな)
セレスが内臓が軋むような動揺に身をよじらせていることなど露知らず、ジーンの脳内では大真面目な『物理的エラー診断』が進行していた。
ジーンは、【圧縮】のスキルを自身の指先に集中させる。
物理的な圧力を極小のピンポイントに絞り込み、セレスのふくらはぎ——下腿三頭筋とヒラメ筋の癒着部分へと、正確無比な角度で沈み込ませた。
「ああっ……! ちょっ、そこ……っ!」
ゴリッ、という生々しい感触。
だが、痛みはない。むしろ、詰まっていた泥水が一気に押し流されるような、圧倒的な解放感がセレスの右足を支配していく。
(……血流の阻害要因を物理的に排除。続いて、【撥水】の浸透圧コントロールを応用し、細胞内に蓄積した乳酸と疲労物質を筋組織から強制排出させる)
ジーンの手が、セレスの足首から膝裏にかけて、滑るように這い上がっていく。
その動きは、極限まで無駄を削ぎ落とした職人のそれだ。
筋肉の起始部と停止部を正確に捉え、筋繊維の走行に沿って物理的なノイズを取り除いていく。
「んっ……ふぅ……っ」
セレスは熱い吐息を漏らし、自らの肩を抱きしめた。
心拍数は急上昇し、鎖骨の窪みにじんわりと汗が浮かぶ。
極上のケア。負担率ゼロの魔法の指先。
彼女は今、一人の女性として、あまりにも濃厚な肉体的接触に完全に融解しそうになっていた。
だが、ジーンの目は虚無だった。
(……よし。筋繊維のテンション、正常値へ復帰。細胞内のエネルギー枯渇に対しては、電解質とアミノ酸の経口補給を後ほど指示しよう。これで明日の稼働率も100%を維持できる)
彼が見ているのは「美しい女性の素足」ではない。
「明日も完璧に荷物を運搬するための、荷台のサスペンション調整」に過ぎなかった。
「……メンテナンス完了。駆動域、問題なし」
ジーンはピタリと手を止め、何事もなかったかのように立ち上がった。
「えっ……? あ、もう……終わり……?」
「……これ以上の干渉は、逆に筋組織へダメージを与える。対象の安静を推奨する」
セレスの潤んだ上目遣いも、火照った頬も、彼の三白眼には一切届かない。
ジーンはただ、背負っていた荷物袋の結び目が緩んでいないかを大真面目に確認し始めている。
その致命的で、氷点下のように冷徹なプロ意識。
セレスは、自分が彼にとって「完璧に磨き上げられた剣」や「手入れの行き届いた革靴」と同じようにしか扱われていないことを悟り、それでもなお、彼の不器用な優しさに惹かれていく自分を止めることができなかった。
◆
同じ頃。
聖王国グロリアス、地下迷宮の第二階層。
「ハァッ……ハァッ……! 誰か……誰か、荷物を……!」
泥と魔物の返り血に塗れた勇者アーサーが、壁にすがりつきながら血を吐いていた。
右脚の靭帯断裂に続き、左足の疲労骨折。
彼の肉体は、自らが振り回す聖剣の重量と、過剰な運動エネルギーの反動を処理しきれず、自壊へのカウントダウンを始めていた。
「アーサー……もう、魔力が……。ポーションも、全部凍って破裂して……ッ」
大魔導士エレナの瞳は落ち窪み、かつての美貌は見る影もない。
脳内血管の膨張と、疲労物質の過剰蓄積。彼女はまともに思考することすらできず、自身の杖を杖代わりに這いずるのが精一杯だった。
ガウェインに至っては、すでに意識がない。
自重百キロの鎧に押し潰され、呼吸器官が圧迫されてチアノーゼを起こしている。
彼らは理解していなかった。
自分たちが『最強』であったのは、背後で常に、物理法則をハックし、疲労を弾き、衝撃を圧縮してくれていた「完璧な裏方」が存在していたからだということを。
「ジーン……どこにいるんだ、ジーン……ッ!」
アーサーの絶叫が、暗く冷たい迷宮の泥の中へと、虚しく吸い込まれていった。
彼らの機能不全の肉体をメンテナンスしてくれる存在は、もう、どこにもいなかった。




