第6話:氷壁のステージと、不器用な護衛対象
第6話:氷壁のステージと、不器用な護衛対象
「ガァァァァァァッ!!」
マイナス二十度の吹雪を切り裂き、推定重量一・五トンの雪熊が咆哮を上げた。
全身を覆う氷の装甲は、鋼の剣すら弾き返す天然の絶対防御。それが四つん這いになり、巨大な質量を伴ってセレスへと突進してくる。
だが、セレスの青い瞳に、もはや焦りや死への恐怖は微塵もなかった。
「遅いわね」
セレスは細く長く息を吐き、右足のブーツで雪原を力強く蹴り上げた。
ダンッ!
これまでは、踏み込むたびに距骨と脛骨が削れ合う激痛が走っていた。だが今は、ジーンの【撥水】によって関節の摩擦係数がゼロに設定されており、骨格は完璧な噛み合わせを維持している。
さらには【圧縮】の恩恵により、身に纏う装備の自重すら存在しない。
痛覚からの完全な解放と、無重力のような身軽さ。
没落した氷の天才剣士は、かつて彼女が最も輝いていた全盛期のパフォーマンスを、この極限環境において百二十パーセントの出力で叩き出していた。
巨獣の太い腕が、セレスの頭上から振り下ろされる。
風圧だけで岩盤を砕くその一撃を、セレスは紙一重のステップで躱した。関節の摩擦がない彼女の挙動は、まるで氷上を滑る刃そのものだ。
「……そこっ!」
セレスの白銀の長髪が吹雪に舞い、手にした長剣が閃いた。
極限まで研ぎ澄まされた彼女の斬撃が、巨獣の厚い氷の装甲の『継ぎ目』――筋肉が露出するわずかな隙間へと、寸分の狂いもなく吸い込まれていく。
ズバァァァンッ!!
硬質な氷が砕け散る音と共に、巨獣の右前腕の腱が完全に切断された。
巨体がバランスを崩し、雪煙を上げて斜面へと激突する。
(……すごい。私の体が、私の意思通りに動く……!)
セレスは着地と同時に剣を振るい、刀身に付着した血を雪に落とした。
振り返ると、彼女から数メートル離れた安全圏で、ジーンが巨大な荷物袋を背負ったまま、気怠げな三白眼で静かにこちらを見つめている。
彼が展開する【撥水】の防壁が、セレスの周囲から吹雪の干渉をすべて弾き出し、彼女が最も剣を振りやすい「完璧な無風のステージ」を維持し続けていた。
ジーンは戦闘に一切介入しない。ただ、彼女が最高のパフォーマンスを発揮するための『環境』を、裏方として冷徹に提供し続けているだけだ。
(……あの男が、私を……。ダメよ、今は目の前の敵に集中しなさい……!)
セレスは胸の奥で急激に高まる熱を振り払い、体勢を立て直そうとする巨獣へと再び踏み込んだ。
痛みはない。呼吸も乱れない。
この完璧なステージを用意してくれた彼の前で、無様な姿を見せるわけにはいかない。
数秒後、セレスの放った冷徹な一撃が巨獣の頸動脈を深くえぐり、雪山に血の華が咲き誇った。
◆
同じ頃。
聖王国グロリアス、地下迷宮の第一階層付近。
「ア゛アァァァァッ! 痛い、痛いィィィィッ!! なんでだ、なんで俺のポーションが……ッ!?」
泥濘の通路で、勇者アーサーが涙と鼻水にまみれて絶叫していた。
自重と急加速のGに耐えきれず、右脚の靭帯を完全に断裂した彼は、もはや一歩も歩くことができず、泥水の中で無様に這いつくばっていた。
「アーサー! 今、超回復のポーションを……えっ!?」
大魔導士エレナが、慌ててマジックバッグから最高級のポーションを取り出す。だが、彼女の顔は青ざめていた。
クリスタル瓶に入っていたはずの赤い液体は、完全にカチカチに凍りついていたのだ。
「ど、どうして!? この階層の温度は十度以上あるはずなのに……!」
エレナが混乱して叫ぶ。
当然である。これまではジーンが【撥水】のスキルを使い、ポーションの内部温度を一定に保つための細やかな『温度管理』を常時行っていたからだ。
そのサポートが消えた今、魔法のアイテムであるポーションは、周囲の魔力濃度の変化や湿度の影響をダイレクトに受け、内部から急激な相転移(凍結)を起こしていた。
「エレナ、魔法だ! 炎の魔法で溶かせッ!」
「む、無理よ! 頭が……頭が割れそうに痛いの……ッ!」
エレナは頭を抱え、その場にうずくまって嘔吐した。
ジーンによる『疲労物質の体外排出』が消え、彼女の脳内にはこれまでに放った魔法の燃えカスがヘドロのようにこびりついている。血管は膨張し、思考するだけで網膜の裏が焼き切れるような激痛が彼女を襲っていた。
「ガハハ……ッ。二人とも、情けないぞ……ッ。勇者たるもの、この程度の痛みは……ッ、グベェッ!?」
ガウェインが大盾を杖代わりに立ち上がろうとした瞬間、彼の膝の半月板が百キロの鎧の自重に耐えきれず、ブチュリという生々しい音を立てて完全に潰れた。
最強のパーティーは、ただの「自分たちの身体の維持すらできない脆弱な人間」へと成り下がり、迷宮の出口を目前にして、絶望的な泥の海へと完全に沈黙した。
◆
フロストグラードの雪山。
ズズン……と、雪熊の巨体が完全に沈黙し、静寂が戻った。
「……ふぅ」
セレスは剣を鞘に収め、白く濁る息を吐き出した。
魔物の討伐完了。これで依頼は達成し、彼女の家門は首の皮一枚繋がった。だが、彼女の心臓を早鐘のように打たせているのは、討伐の達成感ではなかった。
ザクッ、ザクッ。
背後から、静かなブーツの音が近づいてくる。
ジーンだ。
彼は雪煙を払いながら、数十キロの荷物袋を背負ったまま、全くブレない足取りでセレスのそばへと歩み寄ってきた。
「……見事な剣筋だ。関節の駆動域も、正常値の九十八パーセントを維持しているな」
ジーンの三白眼は、魔物の死骸でも、セレスの美貌でもなく、ただ彼女の『右足首』だけを見て、冷徹なカルテの更新を行っていた。
「……っ」
セレスは、顔に一気に熱が集まるのを感じた。
彼が自分を救ってくれた。自分が最高の剣を振るえるように、全てを尽くしてくれた。
なのにこの男は、自分に「惚れてくれ」とも「感謝しろ」とも、微塵も要求してこない。彼にとってこの極限の優しさは、ただの『業務の延長線』でしかないのだ。
「……討伐対象の沈黙を確認した。これで、当面の障害は排除されたな」
ジーンは懐から分厚い羊皮紙の依頼書を取り出し、事務的にチェックを入れる。
「では、下山ルートへ移行する。雇い主、先行を」
ジーンは、セレスに背を向け、進むべき下山ルートの方向を指し示した。
これだけ尽くしておきながら、彼はセレスに一切の干渉を求めようとしない。
その、完璧すぎるプロ意識が、かえってセレスの誇り高い心を、甘酸っぱく、そしてどうしようもなく掻き乱していく。
(……この男、私を……最後まで「ただの荷物」としてしか扱わない気……!?)
許せない。
私をこんなに大切に扱っておいて、勝手に業務連絡だけで終わらせるなんて。
「……ちょっと、待ちなさいよ!」
セレスは、雪を蹴ってジーンの背中に駆け寄り、その分厚いコートの袖を、ギュッと強く掴んだ。
ジーンが、不思議そうに気怠げな三白眼で振り返る。
「……ルートの選定に不備があったか?」
「違うわよ、この朴念仁……ッ!」
セレスは、耳の先まで真っ赤に染め、潤んだ青い瞳で彼をキッと睨みつけた。
氷の天才剣士の虚勢は、そこにはもう欠片も残っていない。ただの、圧倒的な優しさに触れて初恋を自覚してしまった、一人の不器用な女の子の顔だった。
「……私の足のメンテナンス、まだ終わってないでしょ! 明日も、明後日も、あなたが私の専属で……足の調子を、見なさいよ……ッ!」
吹雪の止んだ雪山に、彼女の精一杯の叫びが響いた。
だが、その強烈な熱情も、恋愛感情の回路が完全にバグっている不器用なエージェントには、全く別の意味として変換されていた。
(……なるほど。右足関節の摩耗は、一回の調整では完治しないと危惧しているのか。確かに、術後の経過観察は職人の義務だな)
ジーンは、大真面目な顔で小さく頷き、手袋の留め具を締め直した。
「……承知した。引き続き、メンテナンス業務を遂行しよう」
全く噛み合っていない、極大の温度差。
だが、その致命的なすれ違いこそが、彼女を、彼という名の底なし沼へさらに深く沈めていくのだった。




