第5話:絶対安全圏の構築と、骨格のメンテナンス
第5話:絶対安全圏の構築と、骨格のメンテナンス
ザシュッ。
猛吹雪の中、セレスの細い体が大きく傾いた。
右足首の軟骨が完全に限界を迎え、クッションを失った脛骨と距骨が直接衝突したのだ。脳天にまで突き抜ける激痛に、彼女の呼吸が完全に止まる。
「あ……っ!」
雪崩れるように、彼女の体が白い斜面へと崩れ落ちようとした。
だが、その膝が冷たい新雪に沈むより早く、背後から音もなく滑り込んできた分厚い腕が、彼女の体を「絶対に傷つけてはならない国宝級の精密機械」のように、極めて安定した重心で抱き留めた。
「……歩行フォームの致命的なエラーを検知。これより、応急メンテナンスに移行する」
ジーンの無機質な声が、吹雪の轟音を切り裂いてセレスの耳に届く。
「なっ……触るな! 私はまだ、歩け――ッ、あ゛っ!」
虚勢を張って彼を突き飛ばそうとしたセレスだったが、少し動いただけで右足首に電撃のような激痛が走り、喉の奥から情けない悲鳴が漏れた。
だが、ジーンは彼女の拒絶など最初から聞こえていないかのように、躊躇いなく雪の上に片膝をつき、彼女の右足首へと泥だらけの革手袋を伸ばす。
「……動くな。骨の軸が三ミリずれている。今暴れれば、二度と剣を振れない足になるぞ」
一切の感情も、熱も、下心も含まれていない、ただ事実だけを告げる冷徹な声。
ジーンの三白眼は、セレスの美しい顔など一瞥もせず、ただ彼女の右足首という「エラー箇所」だけを、一流の解剖医のように見据えていた。
『スロット1:【撥水】――対象:彼女の周囲三メートルにおける吹雪、および関節部の摩擦係数』
『スロット2:【圧縮】――対象:彼女が身につけている防寒具と装備の質量』
『スロット3:空き』
カチリ、と。
ジーンの脳内で物理的なスイッチが切り替わる。
直後、セレスは自身の身に起きた信じられない現象に目を見開いた。
「……え?」
ジーンが彼女の足首に触れた瞬間、彼女を容赦なく削り取っていたマイナス二十度の暴風雪が、まるで透明なガラスドームに弾かれたかのように、彼女の周囲三メートルから完全に消え去ったのだ。
無風。そして、自身の体温が外へ逃げないことで構築された、異常なほど快適な絶対安全圏(適温空間)。
さらに、鉛のように彼女の肩にのしかかっていた銀狼のコートと剣の重さが、フッと無重力のように消滅した。
(……【圧縮】による装備質量の軽減。これで彼女の自重負荷は消えた。次に【撥水】による関節の摩擦係数ゼロ化。これで軟骨同士の干渉は起きない)
ジーンの思考は、狂気的なまでにロジカルだった。
彼は分厚い革手袋越しに、セレスの足首の関節を包み込む。氷点下の雪山にあって、その手は異常なほど暖かく、そして鉄の万力のように安定していた。
「フゥゥゥ……ッ」
ジーンが浅く息を吐き、自らの大腿四頭筋と背筋を連動させ、完璧な重心移動を行う。
その肉体のタメから生み出された緻密な運動エネルギーを、彼は指先へと伝え、セレスのズレた骨格を物理的に押し込んだ。
ゴキリ。
「――っ!?」
痛い、と思ったのは一瞬だけだった。
本来あるべき位置へと、骨が完璧な角度でパズルのように嵌め込まれる。
直後、セレスの脳を支配していた絶望的な痛覚が、まるで嘘のように、完全に、そして綺麗に消え去った。
「……関節の再配置、および負荷要因の排除、完了」
ジーンは、何事もなかったかのように立ち上がり、パンパンと革手袋の雪を払った。
セレスは、雪の上にへたり込んだまま、呆然と彼を見上げていた。
痛みが消えた。それどころか、まるで羽が生えたように足が軽い。
魔法の光など一切なかった。ただの泥臭い物理的な骨格矯正と、信じられないほど正確なスパ(極限のケア)。
だが、セレスの心を最も激しくかき乱したのは、そんな驚異的な手技の事実ではなかった。
(……この男、私を……微塵も「女」として見ていない……!)
セレスは美しい。誰もが彼女に一目置き、男たちが自分に触れるとき、そこには必ず「欲望」の熱が混ざっていた。
しかし、今彼女に触れたジーンの手には、そういった粘着質な熱が1ミクロンも存在しなかった。
彼の瞳は、極上の刀剣の錆を落とし終えた職人のように、ただ「機材のメンテナンスが完了したこと」への静かな満足感だけを浮かべていたのだ。
自分を「ただの荷物」として、しかし「国宝級の美術品」のように丁重に扱い、完璧に直してしまった男。
その底知れないプロ意識と、致命的なまでの『恋愛感情の欠落』を目の当たりにした瞬間。
「……っ」
セレスの胸の奥で、強固な氷の壁がピキリと音を立てて罅割れた。
今まで必死に張ってきた虚勢が、圧倒的な優しさと物理的なケアの前でドロドロに溶かされていく。
(……足手まといなら見捨てるって、あんなに酷いことを言ったのに……どうして、こんなに優しく、私の痛みを……)
圧倒的な敗北感。
そして、セレスの雪のように白い頬が、熱で一気に真っ赤に染まる。
「あ、あの……その、私……」
感謝の言葉を紡ごうと、セレスが潤んだ瞳で彼を見上げた、その時。
ズズンッ……!
地響きと共に、彼らの展開する安全圏のすぐ外側に、巨大な影が立ちはだかった。
雪を割り、姿を現したのは、全身を氷の刃で覆った巨大な雪熊だった。
セレスが痛みに耐えかねて漏らした微かな血の匂いを嗅ぎつけ、やってきたのだ。
「……休憩時間は終わりだ。雇い主。納品スケジュールが遅れている。立てるか?」
ジーンは気怠げな三白眼で巨獣を一瞥し、ただ冷徹に、業務の再開だけを促した。
セレスはハッとして立ち上がる。
足は、全く痛まない。それどころか、かつてないほどに体が軽く、剣の柄を握る手に力が満ち溢れていた。
「……ええ。立てるわ。完璧にね」
セレスは頬の赤らみを必死に雪風で冷まし、氷の刃を抜いた。
この不器用な男が作ってくれた、完璧なステージ。なら、ここで自分の誇りを証明しなければ、彼のメンテナンスの価値を貶めることになる。
没落した天才剣士の瞳に、かつての鋭利な光が完全に戻っていた。
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