第4話:氷刃の虚勢と、完璧なる観測
第4話:氷刃の虚勢と、完璧なる観測
極寒の風が、分厚いオーク材の扉をミシミシと叩き続けている。
氷の軍事国『フロストグラード』。一年を通じて雪に閉ざされたこの国は、建物の外壁すらも分厚い氷で補強されており、街全体が巨大な冷凍庫のような冷気を帯びていた。
冒険者と商人たちがひしめくギルド併設の酒場。
暖炉の火が赤々と燃え、安酒と汗、獣の毛皮が焦げる匂いが充満する熱気の中で、その円卓だけが、まるでそこだけ絶対零度の結界が張られているかのように静まり返っていた。
「……あなたが、ギルドがよこしたポーター?」
氷のように冷たく、感情の読めない声だった。
円卓にただ一人座るその人物は、分厚い銀狼のコートを纏っていた。腰まで届く透き通るような銀色の長髪と、細雪のように白い肌。だが、その美貌以上に周囲を威圧しているのは、研ぎ澄まされた刃のような青い瞳だった。
氷の天才剣士と名高い、没落した名門貴族の令嬢、セレス。
それが、ジーンを名指しで呼び寄せた今回の雇い主だった。
「そうだ。契約に基づき、物資の運搬および管理業務を行う」
ジーンは足音を立てずに円卓へ歩み寄り、無表情のまま淡々と事実だけを告げた。
セレスは酒の入っていないグラスからゆっくりと視線を上げ、値踏みするようにジーンの全身――特に彼が背負っている巨大な荷物袋と、武器を持たない細身の肉体を観察する。
「そう。なら一つだけ言っておくわ」
セレスはグラスをテーブルに置き、ジーンの気怠げな三白眼を真っ直ぐに射抜いた。
「私の背中だけを見て、荷物を落とすな。それ以外は何も期待していないし、足手まといになるなら即座に見捨てるわ」
初対面の相手に対する、極めて傲慢で冷酷な通告。
この雪山での討伐任務は、没落した家門を再興するための、彼女にとって絶対に失敗の許されない重要なクエストだ。だからこそ、実績のない見知らぬ荷物持ちなどに命を預けるつもりは毛頭なく、最初から明確な主従関係と「切り捨てる」というラインを提示したのだ。
並の男であれば、その美貌と刺々しい態度にたじろぐか、あるいは反発して声を荒げるだろう。
だが――ジーンはその言葉に腹を立てることも、呆れることもなかった。
(……極度の重圧による、交感神経の過緊張。呼吸が浅く、血中酸素濃度が低下しているな)
一流の職人が、持ち込まれた武具のわずかな「歪み」を瞬時に見抜くように。
ジーンの視線は、彼女の『冷酷な虚勢』を、ただの「生理的なエラー(異常)」として極めて事務的に解剖していた。
彼にとって、雇い主の感情や性格など、荷物の重量ほども興味がない。
彼が危惧しているのは、このまま彼女が過緊張状態で雪山に入れば、乳酸の蓄積速度が上がり、パフォーマンスが著しく低下することだけだ。
そして何より、ジーンの視線は、テーブルの下に隠された彼女の『足元』を完全にロックオンしていた。
(……右のブーツの底、極端に外側がすり減っている。先ほど立ち上がろうとした際の重心の移動も、無意識に左足を軸にしていた。右足関節、前距腓靭帯の陳旧性損傷。それに伴う、軟骨の深刻な摩耗か)
ジーンの脳内に展開されたシステムUIに、セレスの骨格と筋肉のダメージが、透視図のように精密なデータとして浮かび上がる。
雪山という極限環境において、偏った重心移動は連鎖崩壊を生む。右足を庇えば左の骨盤が歪み、大腿四頭筋に過剰な負荷がかかり、最終的には腰椎にまでダメージが波及する。
それは「運搬ルートの破綻(スケジュール遅延)」に直結する、最も放置してはならない致命的なバグだった。
「……承知した。積載物の管理は俺の業務だ。過不足なく遂行する」
ジーンは一切の感情を交えず、ただ「機材の現状確認」を終えたエンジニアのように一礼した。
彼女の抱える悲痛な覚悟も、刺々しい態度も、彼にとっては『配送ルートにおける環境ノイズ』の一つに過ぎない。
◆
酒場を出て、猛吹雪の吹き荒れる雪山の入り口へと足を踏み入れる。
外気温マイナス二十度。風速十五メートル。
微細な氷の粒子を伴った暴風雪は、ただの「冷気」という生ぬるい言葉では表現しきれない。それは大気の散弾であり、露出した皮膚をヤスリのように削り取り、肺に吸い込めば気管支の水分を瞬時に凍結させ、内側から呼吸器を破壊する純然たる物理兵器だった。
「……ハァッ、ハァッ……ッ」
新雪が膝下まで積もる急斜面。セレスは先頭を歩きながら、マフラーの奥で血の味のする息を吐いていた。
痛い。右足首が、まるで焼け火箸を突き立てられたように熱く、同時に感覚が麻痺するほど冷たい。
極寒の環境下では、関節を滑らかに動かすための滑液が著しく粘度を増す。古傷を抱えたセレスの右足首は今、クッションを失った骨と骨が直接削れ合うような、絶望的な摩擦を起こしていた。
(……私は、氷の天才剣士。こんなところで、足手まといになるわけには……!)
強烈な痛みを気力だけでねじ伏せ、彼女はさらに歩行のピッチを上げる。
弱みなど見せられない。ましてや、後ろを歩いているのは「足手まといになるなら見捨てる」と突き放したばかりの、ただの荷物持ちの男なのだ。自分が立ち止まれば、彼に何を言われるかわからない。
だが、そんな彼女の悲壮な決意とは裏腹に、後方を歩くジーンの思考は、狂気的なまでに冷徹だった。
ザクッ、ザクッ。
ジーンは、セレスの残した足跡を寸分の狂いもなく踏みしめながら、無音で追従していた。
背中には数十キロに及ぶ野営具と物資。だが、彼はジョブスキル【圧縮】によって荷物のデータ容量を操作し、その質量を極限まで軽減している。さらに、二百キロの高強度スクワットで鍛え抜かれた完璧な足幅と重心移動により、雪山の悪路であっても彼の上半身は一ミリもブレていない。
(……歩行ピッチが規定値から逸脱している。右足の接地時間が、左足に比べてコンマ四秒短い)
ジーンは気怠げな三白眼で、前を歩くセレスの背中――否、彼女の「骨盤の傾き」と「筋肉の収縮率」だけを監視していた。
このまま彼女が虚勢を張り続け、無理なペースで雪山を登り続ければどうなるか。
物理法則は残酷なまでに正確な計算式を弾き出す。
(……あと四十五分で、彼女の右足首の痛覚閾値が限界を突破する。結果、彼女は雪に倒れ込み、凍傷による細胞の壊死が始まる。そうなれば、俺の『運搬業務』に致命的な遅延が生じる)
ジーンの手が、ゆっくりと革手袋の留め具を弄った。
雇い主の命を救うためではない。
このままでは自分の仕事に支障が出る。だから、道中にある「障害物」を取り除くのと同じように、彼女の肉体という「エラー」を修理しなければならない。
猛吹雪が一段と強さを増し、視界が白く染まる。
セレスの右足首から、限界を知らせる微細な軟骨の軋み音が鳴った。
彼女の虚勢という名の薄氷が割れるまで、あとわずか。
世界で最も不器用な職人の、極限のメンテナンスの準備が、静かに、そして確実に整いつつあった。
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