第3話:崩壊の足音と、氷点下の配送ルート
第3話:崩壊の足音と、氷点下の配送ルート
聖王国グロリアスの地下迷宮、第三階層。
深層から上層へと続く比較的安全なルートを歩きながら、勇者アーサーは苛立たしげに舌打ちをした。
「チッ……なんだってこんなに空気が重いんだ。ブーツの底にも泥がこびりついてきやがるし、最悪の気分だ」
彼らはジーンを解雇してから、まだ三十分も歩いていない。
だが、アーサーの身体には既に異変が起きていた。
一歩踏み出すごとに、大気がひどく粘り気を帯びているように感じる。泥濘んだ地面は容赦なくブーツを吸い込み、足を上げるだけで無駄な体力を削られていく。これまでは深層の悪路であっても、大理石の上を滑るように軽快に歩けていたはずなのだ。
「仕方ないわよ。下働き(ポーター)をクビにしたんだから。迷宮の泥くらい、自分の足で我慢なさいな」
エレナが不満げに鼻を鳴らす。
だが、彼女の額にもじっとりと脂汗が浮いていた。
先ほどの戦闘で放った魔法の余波――本来なら、ジーンの【撥水】によってとうに体外へ弾き出されているはずの脳の疲労物質が、頭蓋骨の内側にへばりついている。心臓が血を送り出すたびに血管が脈打ち、ドクンドクンと鈍い頭痛が響く。胃の底からせり上がるような強烈な魔力酔い(吐き気)が、彼女の平衡感覚を狂わせ始めていた。
「ガハハ! たかが泥濘で情けないぞアーサー! 勇者たるもの、この程度の道は気合で……ッ!?」
先頭を歩いていたガウェインが、唐突に言葉を区切った。
彼の顔から血の気が引き、その丸太のような両脚が、ぶるぶると小刻みに震え始めている。
百キロを超える鋼鉄の大盾と全身鎧。これまではジーンの【圧縮】によって「数キロの羽毛のように」軽く感じていたその重装甲が、今になって本来の絶対的な『質量』を取り戻し、彼のインナーマッスルと膝の軟骨を無慈悲に押し潰し始めていたのだ。
「どうした、ガウェイン?」
「い、いや……なんでもない。少し、鎧の関節が……軋むだけだ」
ジーンの『十分以内に防錆オイルを差すことを推奨する』という最後のアドバイスを鼻で笑って無視した結果、極度の湿気に当てられた関節部の油膜が完全に切れ、動くたびに鋼鉄同士が嫌な摩擦音を立てていた。
その時。
通路の奥から、数匹のストレイ・オークが姿を現した。
深層の魔物に比べれば、児戯にも等しい低級の魔物だ。
「……ちょうどいい。この不快感、八つ当たりで晴らさせてもらうぜ」
アーサーが、凶悪な笑みを浮かべて細身の剣を抜いた。
(あの鬱陶しい荷物持ちの顔を思い出すと、無性に腹が立つ。自分のこの『超高速戦闘』を見せてやれないのが残念なほどだ。)
「一秒で終わらせてやる」
アーサーは大きく腰を落とし、前傾姿勢をとった。
全身のバネを引き絞り、自慢の超スピードを発動させるための、爆発的な踏み込み。
これまでは、その予備動作の瞬間にジーンが【撥水】のスキルを合わせ、彼にかかるすべての『空気抵抗』と『足元の不要な摩擦係数』を完全にゼロに設定してくれていた。
だが、今は違う。
物理法則は、極めて平等かつ無慈悲に彼へ牙を剥く。
「消えろ――ッ!!」
ダンッ!!
アーサーが、渾身の力で泥濘んだ石畳を蹴り飛ばした。
圧倒的な脚力による急発進。
しかし、彼の足元には【撥水】による摩擦のキャンセルがない。前方に立ちはだかる大気は、空気抵抗という名の見えない壁となって彼の突進を正面から受け止めた。
行き場を失った莫大な運動エネルギーは、どこへ向かうか。
答えは一つ。アーサー自身の肉体である。
自身の脚力と、急加速による強烈なG。
それらが一切のフィルターを通さず、彼自身の膝と足首の関節にダイレクトにのしかかった。
ブチィィィンッ!!!!
「――――ぁ、え?」
迷宮の通路に、太いロープを引きちぎったような生々しい破断音が響き渡った。
アーサーの右脚の膝蓋靭帯、そしてアキレス腱が、彼自身の異常な筋力と自重の負荷に耐えきれず、根元から完全に断裂した音だった。
超スピードによる美しい斬撃など、放たれるはずもなかった。
アーサーの体勢は完全に崩れ、推進力だけが残った身体は無様に宙を舞う。
「ア゛ッ、ガァァァァァァァァァッ!?」
頭から泥水の中へ突っ込み、数メートルを派手に転げ回る勇者。
顔面を石畳に打ち付け、剣は手からすっぽ抜けて泥の中に突き刺さった。
「ア、アーサー!? ちょっと、何やってるのよ!?」
エレナが叫ぼうとするが、彼女自身も強烈な頭痛と吐き気に襲われ、その場に嘔吐しそうになって蹲る。
ガウェインは助けに走ろうとしたが、百キロの自重を支えきれなくなった両膝が悲鳴を上げ、その場にドゴォンと重い音を立てて這いつくばってしまった。
「痛ぇッ! アァァァァッ!! 足が、俺の足がァァァァァッ!!」
右脚から脳天へと突き抜ける、経験したことのない絶望的な激痛。ちぎれた靭帯が筋肉の中に丸まり、脚はあらぬ方向へひん曲がっている。
泥水をすすりながら、アーサーは汚い悲鳴を上げてのたうち回った。口の中に入ってくる泥の味は、ひどく鉄錆の味がした。
ストレイ・オークたちが、奇妙な光景に首を傾げながら、ゆっくりと近づいてくる。
彼らの『無双』の土台となっていたたった一つのピースが欠けただけで、世界を救うはずの最強のパーティーは、ただの脆弱な肉の塊へと成り下がっていた。
◆
聖王国グロリアスから北へ、馬車で三日。
一年を通じて雪と氷に閉ざされた極寒の地、氷の軍事国『フロストグラード』。
見渡す限りの銀世界の中を、一輪の幌馬車が進んでいた。
外気温はマイナス十五度。秒速十メートルを超える猛吹雪が、馬車の木枠をミシミシと軋ませ、あらゆる体温を奪い去ろうと牙を剥いている。
御者台の横、荷台の隅に、ジーンは一人静かに座っていた。
「……」
彼の恰好は、とても雪山を越えるような重装備ではなかった。
厚手のコートは着ているものの、極寒の地を旅する商人たちが纏うような分厚い毛皮ではない。それなのに、彼の表情には寒さを耐え忍ぶような苦痛の色は一切なかった。
ジーンは気怠げな三白眼で、自身の周囲に展開されたシステムのバグ(異常数値)を観測している。
(……外気温と体表温度の乖離。風の抵抗値、ともに正常枠内に固定されているな)
彼のユニークスキル【撥水】。
それは水分だけでなく、彼に直撃する「冷たい風」そのもの(空気抵抗)を完璧に弾き出していた。さらに、自身の体表から発せられる熱が外部へ逃げることを【撥水】のフィルターで拒絶し、コートの内側に「完全に保温された適温の空間」を作り上げているのだ。
物理法則のハックによる、絶対的な環境耐性。
猛吹雪の中で、彼一人だけがまるで春の陽だまりにいるかのように、一切の震えもなく、浅く規則正しい呼吸を繰り返していた。
「ひぃぃ、冷てぇ……! お客さん、あんたよくそんな薄着で平気だな……!」
分厚い毛皮に身を包み、ガチガチと歯を鳴らしている御者が、不思議そうに振り返った。
「俺はプロのポーターだ。積載物の温度管理には、人一倍気を使っているだけだ」
ジーンは一切の感情を交えず、淡々と事実だけを返した。
彼にとって、自分の体を保温することは「魔法の奇跡」でも「強者の余裕」でもない。次の指名依頼先へ、無傷で自身(労働力)を納品するための、極めて事務的な体調管理に過ぎなかった。
やがて、分厚い雪雲の切れ間から、巨大な氷の城壁が姿を現す。
氷の軍事国、フロストグラード。
この極寒の地で、ジーンを名指しで呼び寄せた新たな雇い主が待っている。
かつての仲間たちが泥の中で絶望していることなど露知らず、ジーンは一流のエージェントのような無機質な視線で、氷壁の街を見据えていた。
次回は深夜【明日 0:00】の更新です!




