第2話:業務外の火力と、配送ルートの障害排除
第2話:業務外の火力と、配送ルートの障害排除
石室の空気が、びりびりと震えていた。
推定重量二トンの巨獣、ミノタウロス。迷宮深層の食物連鎖の頂点に君臨するその怪物は、太く捻じ曲がった角を突き出し、四つん這いに近い前傾姿勢でひび割れた石畳を蹴り砕いた。
ドスッ、ドスッ、ドスッ!
突進。
それは生物というよりも、制御を失った質量兵器そのものだった。時速四十キロを超えて迫る二トンの運動エネルギーは、掠っただけでも人間の骨格など容易く粉砕し、内臓を破裂させる。
だが、その圧倒的な暴力を前にしても、ジーンの気怠げな三白眼は微かな瞬きすらしていなかった。
「……」
彼は無言のまま、足元に転がっていた直径五センチほどの手頃な石ころを拾い上げた。
迷宮の壁から崩れ落ちた、なんの変哲もないただの瓦礫。
擦り切れた革手袋越しに、石の硬度と質量を指先で確かめる。
(……この世界は、物理法則の処理がひどく甘い)
迫り来る巨獣を視界の端に収めながら、ジーンは極めて冷静に脳内のシステムUI(ステータス画面)へアクセスしていた。
ジーンが自身のスキルの『異常性』に気づいたのは、勇者パーティーに加わってから半年ほどが過ぎた頃だった。
きっかけは、野営中に錆びついた剣のメンテナンスを行っていた時のことだ。極めて繊細な宝飾品を研磨する職人が、素材のわずかな歪みを見抜くように、彼はこの世界を構築するシステムの『バグ』を観測した。
ユニークスキル【撥水】。
最初は、ただ荷物を雨水から守るだけのコーティング能力だと思っていた。だが、検証を重ねるうちに、このスキルの本質が「水分の弾き出し」ではなく、「外的干渉の絶対的な拒絶」にあることに気づいた。
水を弾けるなら、空気抵抗も弾ける。摩擦係数もゼロにできる。魔力消費に伴う疲労物質すら、体外へ弾き出すことが可能だった。
ジョブスキル【圧縮】。
これも、巨大な荷物を小さな袋に収めるだけの収納術ではなかった。対象のデータ容量を強制的に書き換え、質量を維持したまま密度だけを極限まで高める空間操作。
この二つを組み合わせれば、大抵の魔物は単独で物理的に粉砕できる。
にもかかわらず、ジーンがこの三年間、勇者たちにこの戦闘応用を一切隠し、ただの「防水リュック」としての役割に徹していたのには、明確な理由があった。
(……理由は単純だ。俺の雇用契約書には『後方支援および物資管理』としか記載されていなかったからだ)
ジーンの思考に、悪意や冷笑は一切ない。
一流の職人は、求められていない装飾を勝手に施したりはしない。それと同じだ。
パーティーにおいて、戦闘とは厳密な役割分担(ヘイト管理)によって成立する業務である。前衛の勇者や聖騎士が敵のヘイト(敵対心)を集め、後衛の魔導士が火力を出す。もし、ただのポーターである自分が不用意に「超音速の質量兵器」などを放てば、敵のヘイト値の計算式が狂い、陣形の生態系が瞬時に崩壊してしまう。
プロとして、契約外の越権行為で現場を乱すのは下策中の下策だ。
それに、もう一つ。
魔法の力に頼らず、純粋な物理法則をハックして放つこの一撃は、生身の肉体に莫大なリキャスト(反動)を強いる。連発すれば、自身の筋繊維や骨格が悲鳴を上げる。あくまでこれは、後方支援の業務が破綻した際にのみ使用が許可される「緊急時のマニュアル操作」に過ぎないのだ。
だが今、勇者たちから契約を解除され、パーティーは解散した。
一切の制約は消え去った。
『スロット1:【撥水】――対象:自身の前面における空気抵抗および弾道の摩擦』
『スロット2:【圧縮】――対象:右手の石ころのデータ容量』
『スロット3:空き』
カチリ、と。
脳の奥で物理的なスイッチが入る。
右手の中に握られた石ころが、極限まで圧縮されていく。原子の隙間が強制的に削られ、パキパキと空間が軋むような微細なノイズを立てて、質量不変のままパチンコ玉ほどのサイズへと縮小される。
ギィィィッ……。
ジーンの足幅が、静かに開いた。
肩幅よりやや広く、つま先を外側へ十五度。
それは、二百キロのバーベルを担いで高強度のスクワットを行う時と全く同じ、寸分の狂いもない完璧な重心移動だった。
泥まみれのブーツが石畳に深く食い込み、足底筋膜が大地の感触を掴む。
分厚い大腿四頭筋とハムストリングスが、断裂寸前のギリギリとした軋み音を立てる。鋼ワイヤーのように鍛え抜かれた全身の筋肉が連動し、大地からの反発力を骨盤から脊椎へ、そして広背筋から右肩甲骨へとロスなく伝達していく。
「グルルルルルァァァァッ!!」
巨獣が、眼前に迫る。
激しい呼気と、腐肉の臭いがジーンの鼻腔を叩いた。
ジーンにとって、この戦いは「命懸けの死闘」ではない。
ただの、現場撤収時における「配送ルートの障害排除」だ。
「フゥゥゥ……ッ」
肺底から浅く、鋭く息を吐き出す。
最も重心が沈み込んだ、極限のタメ。そこから――全身のバネが爆発した。
右腕が鞭のようにしなり、圧縮された超質量が手放される。
ドンッ!!!!
魔法の煌びやかな光など、一切ない。
ただ純粋な『物理法則の暴力』だけがあった。
【撥水】によって空気抵抗を完全にゼロに設定された真空のレールの上を、極小の超質量弾がマッハを超える速度で駆け抜けた。
大気が弾け、焦げたようなオゾンの匂いと強烈なソニックブームが石室を満たす。
直後、圧縮弾が巨獣の眉間に直撃した。
二トンの巨体を支えていた分厚い頭蓋骨が、物理的な限界点を超え、内側から爆発したように粉砕される。
脳漿と骨の破片が後方の石壁に弾け飛び、首から上を失った巨獣が、慣性の法則に従って数メートル滑り――ジーンの足元で、ズドォォンと重い音を立てて沈んだ。
「……」
ジーンは無表情のまま、ゆっくりと右腕を下ろした。
質量操作と超音速投擲の反動をすべて受け止めた右肩から前腕にかけて、筋繊維が微細な断裂を起こし、異常な熱を持っている。
浅い呼吸を数回繰り返し、強制的に血流を促して熱を散らす。
「……残務処理、完了」
自らの肉体に残る生々しい疲労感を確認し、ジーンはスーツの埃を払うような、極めて洗練された動作で革手袋の留め具を締め直した。
足元に転がる巨獣の死骸にも、この階層の奥にあるという財宝にも興味はない。彼の仕事は「荷物を完璧な状態で運ぶこと」であり、魔物討伐ではないのだから。
懐から使い込まれた羅針盤と地図を取り出す。
次の目的地は、極寒の環境デバフが支配する氷の軍事国『フロストグラード』。あそこのギルドから、特殊な物資運搬の指名依頼が入っていたはずだ。
ジーンは巨大な荷物袋を背負い直し、泥を噛むブーツの音を静かに響かせながら、迷宮の出口へと向かって歩き出した。
彼が去った後の、絶対的な静寂。
だが、迷宮の遥か上層では今頃、彼の「サポート」という名の舞台装置を失った勇者たちが、己の肉体にかかる『本来の物理法則』に気づき、絶望の悲鳴を上げ始めている頃だろう。
お読みいただきありがとうございます!
本日は【18:00】にもう1話更新いたします!
勇者パーティーのさらなる絶望と、氷の天才剣士セレスの登場をお見逃しなく!




