第1話:解雇通知と、迷宮深層の残務処理
第1話:解雇通知と、迷宮深層の残務処理
湿った空気が、肺の奥に重くへばりつく。
聖王国グロリアスが管理する地下迷宮、第七階層。
薄暗い石室には、硬質な鱗が泥を擦る異音と、むせ返るような血と内臓の匂いが充満していた。
視界を埋め尽くすのは、十数匹の武装リザードマンの群れ。並の冒険者なら、その凶悪な顎に一歩踏み込まれただけで致命傷を負う、深層の殺戮者たちだ。
だが、それらは次の瞬間、ただの物理的な肉塊へと成り果てていた。
「遅いな。俺には止まって見えるぜ」
金髪の剣士――勇者アーサーの姿がブレた。
常人の動体視力では到底追えない超スピード。彼は、足首まで沈み込む泥だらけの悪路において、一切滑ることも足をとられることもなく、無音で魔物の背後へと回り込み、太い頸動脈を次々と切断していく。
「数だけ多くても無駄よ。燃えなさい」
後方から、大魔導士エレナが指先を振る。
詠唱すら省略された巨大な火球が連発され、残った魔物たちを石壁ごと消し炭に変える。本来であれば、脳の毛細血管が焼き切れんばかりの疲労物質が溜まるはずだが、彼女の美しい顔に魔力枯渇の苦痛は微塵もない。
「ガハハッ! 効かんぞ!」
巨漢の聖騎士ガウェインが、総重量百キロを超える鋼鉄の大盾を事も無げに構え、魔物の大槌を正面から受け止める。凄まじい衝撃音が響くが、彼の足は泥濘に一ミリたりとも沈み込まない。
圧倒的だった。
世界を救うために選ばれた、最強のパーティー。
神に愛されたかのような、一切の物理的制約を受けない「奇跡」の体現者たち。
その絶対的な強者たちの後方。
ただ一人、巨大な荷物袋を背負い、無言で立ち尽くしている青年がいた。
ジーン、二十歳。
前衛で戦う武器を持たず、魔法の才もない、ただの荷物持ち(ポーター)。
彼の分厚い革手袋は泥に汚れ、額からはじっとりと汗が滲んでいる。涼しい顔の最強の三人と比べると、あまりにも無力で、ひどく泥臭い存在だった。
(……見事なものだ)
ジーンは、気怠げな三白眼で三人の動きを観察しながら、心の中で静かにカルテを更新していた。
故郷の村を出発してから、丸三年。
アーサーの踏み込みの速度、エレナの魔力放出量、ガウェインの筋組織の密度。
専属のポーターとして、長年彼らの武具と体調を管理してきたジーンから見ても、彼らの成長曲線は目を見張るものがあった。
「――ふぅ。片付いたな」
アーサーが剣の血振りをし、振り返る。
その視線が、後方で息を殺しているジーンを捉えた。しかし、長く寝食を共にしてきた仲間に向けるものではなかった。そこに浮かんでいたのは、紛れもない侮蔑の色だった。
「おい、ジーン。お前は俺の超高速戦闘に、もうついてこれていない。足手まといの『防水リュック』はここで消えろ」
冷ややかな宣告が、湿った石室に響いた。
「三年も我慢してあげたんだから十分でしょ。泥臭いだけの裏方なんて、美しくないわ。荷物なら私が買ったマジックバッグがあるし、あなたはもうお払い箱よ」
エレナが、真新しい革製のマジックバッグを見せびらかして鼻で笑う。
「安心しろジーン。お前の分の経験値は、俺の強靭な肉体が世界を救うために有効活用してやる。田舎の村に帰って、畑でも耕すんだな」
ガウェインが大盾を肩に担ぎ直し、白い歯を見せた。
彼らの言葉は、残酷な事実だった。
この迷宮の深層で、戦闘能力を持たないポーターを解雇して置き去りにすることは、死刑宣告に等しい。魔物に遭遇すれば、一瞬で骨も残らず喰い殺されるだろう。
三年の歳月を共にしたというのに、彼らは泥水をすすってきた裏方を一片の躊躇いもなく切り捨てたのだ。
しかし――ジーンの瞳に、「絶望」や「怒り」は微塵も浮かんでいなかった。
(……契約解除。唐突ではあるが、想定内の事態だ)
ジーンの思考は、一流のエージェントのように極めて事務的だった。
彼らが見ているシステムUI(ステータス画面)に、ジーンのユニークスキル【撥水】やジョブスキル【圧縮】の恩恵は、一切の数値として表示されない。
アーサーが泥濘で滑らず超スピードを出せるのは、ジーンが【撥水】で彼への『空気抵抗』と『足元の不要な摩擦』を完全にゼロに設定しているからだ。
エレナが魔法を連発できるのは、ジーンが彼女の脳内に溜まる『疲労物質』をリアルタイムで体外へ【撥水】し続けているからだ。
ガウェインが百キロの重装甲を着て泥に沈まないのは、ジーンが【圧縮】で鎧の質量を数キロに軽減し、重心を強制固定しているからだ。
彼らの「奇跡」は、すべてジーンが物理法則をハックして作り上げた「舞台装置」の上に成り立っているにすぎない。
しかし、その見えないサポート(重労働)は評価対象にならない。
成果が可視化されない以上、パーティー内での自分の価値がゼロと査定されるのは、組織運営の観点から見れば当然の帰結と言えた。
「……承知した。これまでの物品納入および管理契約を、これをもって解除する」
ジーンは一切の感情を交えず、極めて洗練された動作で深く一礼した。
懐からパーティーの共有資金、残りのポーションの在庫リスト、今後の迷宮の推奨ルートを記した羊皮紙を取り出し、静かに彼らの足元へ置く。
「アーサー、右足の踏み込みに癖が出始めている。エレナ、魔力循環のペース配分を見直す時期だ。ガウェイン、アンタの鎧の関節部は油膜が切れかけている。この階層は湿度が高い。十分以内に防錆オイルを差すことを推奨する」
プロとして、三年間蓄積したデータを基に、完璧な引き継ぎと最後のアドバイスを残す。
彼らの傲慢な態度に対する意趣返しなどない。ジーンはただ、仕事の終わりを誠実に全うしただけだ。
泥にまみれた自分のブーツと、一切の言い訳をしないその背中は、ひどく静かな哀愁を帯びていた。
「……最後まで鬱陶しい小言を。せいぜい迷宮の泥でもすすって生き延びるんだな」
アーサーが煩わしそうに羊皮紙を拾い上げ、踵を返す。
三人の軽い足音が、石畳を叩きながら迷宮の上層へと消えていく。彼らが最後のアドバイスを聞き入れることはないだろうし、自分たちの能力の真実に気づくこともないだろう。
完全な静寂が落ちた。
ジーンは、泥まみれのブーツを一度だけ踏み鳴らす。
脳内のシステムUIを開き、三年もの間、彼らのために常時稼働させ、自身の肉体に多大な負荷をかけ続けていた三つのスキルスロットを解除した。
カチリ、と。
脳の奥底で、物理的なスイッチが切り替わる生々しい感覚。
「……フゥッ」
肩にのしかかっていた見えない重圧が消え、ジーンは浅く、長く息を吐いた。
手首を回し、首の骨を鳴らす。堰き止められていた血流が全身の筋組織に行き渡り、細胞が歓喜の産声を上げるような熱を帯びる。
ズ……ズズズズズ……。
その時だった。
彼らの気配が完全に消えた直後の石室の奥から、冷たい石壁を削るような重低音が響いた。
空気が震え、強烈な腐肉と獣の悪臭が鼻腔を突く。
暗がりから現れたのは、天井に頭を擦り付けるほどの巨体だった。
岩盤のような分厚い皮膚、丸太よりも太い両腕。頭部には太く捻じ曲がった二本の角。
迷宮深層のヌシとされる、推定重量2トンを超える凶悪な巨獣が、ズシン、ズシンと内臓を揺らすような重い足音を立てて姿を現したのだ。
その濁った双眸が、室内にただ一人残された、武器すら持たない細身の青年をロックオンする。
巨大な鼻孔から、シューッという大気を焦がすような荒い呼気が漏れた。
一切の退路はない。
最強の勇者パーティーに見捨てられ、暗い地下の底で孤立無援となった、ただの荷物持ち。
彼を見放した勇者たちなら、彼が三秒後にひき肉にされている姿を容易に想像するだろう。
「……」
しかし、ジーンは逃げ惑うこともなく、悲鳴を上げることもなく、ただ気怠げな三白眼でその見上げるような巨獣を静かに見つめていた。
擦り切れた革手袋をはめた手を、ゆっくりと持ち上げる。そして、足元に転がっていた直径五センチほどの手頃な石ころを、無造作に拾い上げた。
(……さて。残務処理といくか)
一切の魔法の光もない。武器もない。
ただの荷物持ちの青年と、二トンの巨獣。
絶望的な質量の差の中で、ジーンはひび割れた石畳の上に一人、静かな狂気を孕んで立っていた。
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本日は【12:00】と【18:00】に話更新いたします!
タイトルが長いため、本作は『リュクポ』と呼んでいただけると嬉しいです。
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