↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/44

第0話:初期化された肉体と、帰るべき倉庫

第0話:初期化された肉体と、帰るべき倉庫


 自由交易都市クロスロードの裏路地。

 冷たい雨が打ち付ける泥濘ぬかるみの中で、一人の幼い少年が、自分の小さな両手を不思議そうに見つめていた。


(……大腿骨の長さ、推定三十センチ未満。大胸筋および広背筋の筋断面積が、前世の記憶と比較して絶望的に不足している。骨密度も低く、関節軟骨も未発達。……肉体のスペックが、完全に初期化フォーマットされているな)


 男――ジーンの三白眼は、七歳という年齢にそぐわない冷徹な光を帯びていた。

 彼はつい先ほど、世界のデバッガーを名乗るダウナーな女によって、この世界に転生させられたばかりだった。

 支給された業務ツールは、【撥水】スキルと【ポーター】というジョブのみ。

 彼は泥だらけの路地裏で立ち上がり、ひどく大真面目な顔で現状の物理エラーを演算した。


(……体表が雨に濡れることで、気化熱により深部体温が急激に奪われている。現在の筋量ではシバリング(震え)による熱産生も追いつかない。早急に乾燥領域を確保しなければ、心停止システムダウンに至る)


『スロット1:【撥水】――対象:自身の体表から一ミリ外側の大気』

『実行条件:雨粒の進行ベクトルを反転。物理的な乾燥領域の構築』


 カチリ、と。

 ジーンの脳内で無機質なスイッチが押される。

 直後、彼に向かって落ちていた雨粒が、見えない傘に弾かれたようにパラパラと不自然な軌道を描いて逸れていった。

 だが、問題は寒さだけではない。彼の前世の記憶(二百キロのバーベルを挙上した筋力)と、現在の貧弱な肉体との間に生じている「重心のズレ」だ。


「……まずは、この機材(肉体)の重心移動のテストだ」


 ジーンは、路地裏に転がっていた大人用の木箱(推定三十キロ)の前にしゃがみ込んだ。


(……現在の筋肉量では純粋な力で持ち上げるのは不可能。ならば、広背筋の張力と骨盤の前傾を利用し、テコの原理で重心を真上に引き抜く)


 七歳の少年が、顔を真っ赤にして三十キロの木箱を抱え込もうとした、その時だった。


「ちょっと! 何やってんのよ、このバカガキ!!」


 突然、背後から首根っこを乱暴に引っ掴まれた。

 ジーンが振り返ると、そこには、亜麻色の髪を一つに結んだ、十代半ばの少女が立っていた。

 後にギルド『銀の天秤』の受付嬢として胃薬を手放せなくなる少女、マリーの若き日の姿である。


「こんな雨の中で、自分の体より大きな箱を持とうとするなんて……腰の骨が折れるわよ! ほら、さっさと中に入りなさい!」


 マリーは、ジーンの泥だらけの体を強引に抱え上げると、近くにあった古びた木造の建物――ギルド『銀の天秤』の中へと彼を放り込んだ。

 暖炉の火がパチパチと爆ぜる、温かい空間。


「……他人のパーソナルスペースへの強引な介入。だが、外気温との差は推定十五度。生命維持には最適な環境だな」


 ジーンが気怠げに呟くと、マリーは呆れたように大きなため息をつき、熱いスープの入った木の実のボウルを彼の前にドンと置いた。


「生意気な口を叩く前に、これを飲みなさい。……あんた、親は? 帰る場所はないの?」


 ジーンはスープを一口飲み、その成分を分析する。


(……ナトリウム、および動物性タンパク質(アミノ酸)の補給を確認。消化器官への負荷も少ない。完璧なリカバリー液だ)


「……親という概念データは俺にはない。帰るべき拠点ベースも未設定だ」


「そう。……なら、今日からここがあんたの家よ。ちょうど荷物運びの雑用係が欲しかったところなの。しっかり働きなさいよ」


 マリーの口調は乱暴だったが、ジーンの冷え切った小さな手を包み込むように握る彼女の指先は、ひどく優しく、温かかった。


「……労働力の提供と引き換えに、この施設を『俺の倉庫(実家)』として登録レジストするということだな。悪くない契約だ」


 ジーンは、マリーの顔をジッと見つめ、大真面目に頷いた。

 これが、世界で最も不器用なポーターと、彼を生涯支え続けることになる受付嬢との、不器用な契約成立の瞬間だった。


 ◆


 数日後。ギルドの裏庭。


「いけぇぇぇっ! 俺の超高速の剣技を食らえぇっ!」


 木の枝を振り回しながら泥だらけの庭を走り回っているのは、近所に住む悪ガキのアーサー(八歳)。


「ふふん! 私の大魔法の前には無力よ! えいっ!」


 長い木の枝を杖に見立てて振りかざしているのは、お転婆な少女エレナ(八歳)。


「俺の無敵の鎧は、どんな攻撃も弾き返すぞ!」


 頭に鉄のバケツを被り、胸にブリキの板をぶら下げているのは、ガキ大将のガウェイン(九歳)。

 『勇者パーティー』の幼き日の姿である。


「おーい、ジーン! お前は一番下っ端なんだから、俺たちの『戦利品』をしっかり持っておけよ!」


 アーサーの掛け声と共に、ジーン(七歳)の背中に、石がぎっしりと詰まった麻袋(約十五キロ)が乗せられた。

 普通の七歳児なら泣いて嫌がる重労働。だが、ジーンの三白眼は、歓喜ともとれる静かな熱を帯びていた。


(……素晴らしい。現在の未発達な脊柱起立筋と大臀筋に対して、完璧な過負荷オーバーロードだ。彼らは俺の筋肥大バルクアップのために、最適なウェイトを用意してくれたというわけか)


 ジーンは麻袋を背負い、大真面目な顔でスクワットの姿勢をとり、膝のクッションで重量を吸収した。


「すごいぞ! 今日の俺、足がめちゃくちゃ速い!」


 アーサーが泥濘ぬかるみの庭を、転ぶこともなく猛スピードで駆け抜ける。

 当然だ。ジーンが密かに【撥水】を起動し、アーサーの足元の大地との『摩擦係数』を完璧にゼロに(あるいは最適なグリップに)調整してやっているのだから。


「えいっ! 私の魔法もすごい威力よ!」


 エレナが木の枝を力任せに振り回す。子供の筋力では肩の関節を脱臼しかねない無茶なフォームだが、ジーンが背後から【圧縮】のスキルで枝の質量ベクトルを瞬時に相殺し、彼女の関節インナーマッスルへの負担をゼロにしている。


「ははは! このバケツ、羽みたいに軽いぜ!」


 ガウェインが首を痛めそうな重い鉄バケツを被って飛び跳ねているが、それもジーンが絶対質量を【圧縮】し、安全なヘルメットへと変質させているからだ。


「俺たち、もしかして天才なんじゃないか!?」


「ええ! 私たち、将来は絶対に伝説の勇者パーティーになるわ!」


「ジーン! お前はずっと、俺たちの荷物持ちをしてていいぞ!」


 無邪気に笑い合う未来の勇者たち。

 彼らは自分たちの「才能」を信じて疑わなかった。自分たちを無敵の存在にしているのが、背後で黙々と石の入った袋を背負い、彼らの物理法則エラーを大真面目にハッキングして回っている、泥だらけの七歳児のおかげだとは一ミクロンも気づかずに。


(……機材ガキどもの稼働率は百パーセント。しかし、自己の出力に肉体が追いついていない。俺が外部からデバフを解除し続けなければ、すぐに自壊(怪我)するな)


 ジーンは麻袋を背負い直し、小さな体を軋ませながら、彼らの後を正確なペースで追いかけていく。


「こらーっ! あんたたち、またジーンに重いもの持たせて! ジーンも、嫌なら嫌って言いなさいよ!」


 ギルドの窓から、マリーが呆れたように怒鳴り声を上げる。

 だが、ジーンは気怠げな目をマリーに向け、首を横に振った。


「……問題ない。これは俺の『業務』だ。それに、筋肉の繊維が心地よく悲鳴を上げている」


「……本当に、可愛くないバカガキなんだから」


 マリーはため息をつきながらも、その目には、不器用な少年への温かい庇護欲が宿っていた。


 雨の日も、風の日も。

 魔法という不確かなものに頼らず、己の筋肉と物理法則だけを信じ、他人の荷物デバフを無言で背負い続ける男。

 世界で最も不器用で、最強のポーターの伝説は。

 この小さな木造のギルド『銀の天秤』と、彼を見守るお節介な受付嬢のスープから、静かに幕を開けたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。