第49話:システムへの対話
第49話:システムへの対話
ジーンが、銀色に輝く流線型の砲弾(壺)を三千度のマグマへと投擲しようと、強靭な肩甲骨を引き絞った、まさにその瞬間だった。
ドクンッ……!!
(……質量の急激な変動。内部エネルギー(エントロピー)の異常増大。……なんだ?)
ジーンの手の中で、完璧に磨き上げられていた壺の表面が、内側からの異常な圧力によってボコボコと脈打ち始めた。
直後、封印が物理的に破裂し、中からピンク色ではなく、ドス黒く粘度の高い『瘴気』が間欠泉のように噴き出した。
噴出した瘴気は、空間の魔素を強制的に取り込み、瞬く間に身長五メートルを超える巨大で不定形な『泥の怪物』へと変貌を遂げた。
『ギギ……ガガガ……! 我ハ、欲望ト恐怖ヲ喰ラウ者……ッ!』
地下十階層の広大なドームに、金属が軋むような醜悪な声が響き渡る。
『貴様ラノ心ノ奥底ニ潜ム、最モ恐レル状況ヲ具現化シ……ソノ精神ヲ、一欠片残ラズ粉砕シテヤロウ……ッ!』
怪物の中心部から、特殊な魔力の波動が全方位へと放射された。
それは、人間の脳神経――特に記憶と感情を司る海馬と大脳辺縁系に直接ハッキングを仕掛ける、悪辣な精神攻撃(幻覚)のシステム。
「あ……ぁ……」
真っ先にその波動を浴びたのは、床にへたり込んでいたセレスだった。
さらに、上の階層から次々と駆けつけてきていた美女たち――エララ、ソフィア、ヴィクトリア、ビアンカたちも、ドームに足を踏み入れた瞬間にそのパルスの射程に捉えられた。
「嫌ぁぁぁっ! ジーン、行かないで……私を捨てないでぇぇっ!!」
セレスが、何もない虚空に向かって両手を伸ばし、絶叫した。
彼女たちの視覚情報(VR)は、怪物によって完全にハイジャックされていた。
脳内に直接入力されているのは、『不器用で大好きな男から、「お前はもう用済みだ」と冷酷に切り捨てられ、永遠の孤独の中に置き去りにされる』という、彼女たちにとって最も恐ろしい絶望の幻覚。
「息が、息ができない……っ! ジーン様ぁっ……!」
「アタシを見ないで、そんな冷たい目で、アタシを見ないでよぉぉッ!」
ソフィアが喉を掻きむしり、エララが床に頭を擦り付けて泣き叫ぶ。
極度のストレスにより、彼女たちの交感神経が暴走。心拍数が異常上昇し、過呼吸による血中二酸化炭素濃度の低下が、手足の痺れと筋肉の硬直を引き起こす。
このまま幻覚によるパニックが継続すれば、精神の崩壊よりも先に、自律神経の完全な機能不全による心停止(ショック死)を招く。
『フハハハハッ! 苦シメ、絶望セヨ! コノ恐怖コソガ我ガ糧! サア、次ハ貴様ダ、荷物持チ……ッ!』
女たちの絶望を啜り、怪物がジーンへとその醜悪な顔を向けた。
ジーンの脳内にも、怪物からの幻覚パルスが容赦なく叩き込まれる。
――しかし。
「……」
ジーンの気怠げな三白眼は、一ミクロンも揺らいでいなかった。
恐怖も、絶望の叫びもない。ただ、大真面目な顔で、目の前の怪物の「挙動」を冷徹にスキャンしているだけだ。
『……ナ、ゼダ? ナゼ、貴様ハ絶望シナイ!? 貴様ノ最モ恐レルモノハ……』
怪物が困惑のノイズを漏らす。
無理もない。ジーンの脳内には「恋愛感情」や「他者からの評価」に対する執着が完全に欠落しているため、怪物がいくら『女に捨てられる幻覚』や『孤独の恐怖』を入力しようとしても、彼のシステムはそれを「該当データなし(Null)」として弾き返してしまうのだ。
(……なるほど。状況は把握した)
ジーンは、泣き叫ぶ美女たちと、目の前でうごめく泥の怪物を交互に見比べ、一つの極めて唯物論的な結論を導き出した。
(……対象の脳波、あるいは発話される言語データから『マイナスの感情ベクトル(ストレス)』を抽出し、それを視覚および聴覚の物理現象として強制出力(具現化)するプログラムか)
それは、一流のエージェントによる、魔法の完全なる解体。
彼にとって目の前の怪物は、恐ろしい悪魔でも呪いでもない。
ただの『音声入力によって動作する、単純なAI』に過ぎなかった。
(……外部入力された「言語情報」を忠実に具現化してしまうということは、入力フォームの制限が甘いということだ。システムの仕様さえ理解すれば、容易にバグらせることができる)
ジーンは、百二十キロの荷物から解放されて軽くなった両肩をゆっくりと回した。
頸椎がポキリと小気味良い音を立てる。
『オノレ……ッ! 貴様ノ精神ニ、直接恐怖ヲ叩キ込ンデヤル! 貴様ガ最モ恐レル状況ヲ、口ニ出シテ絶望スルガイイッ!!』
怪物が、ジーンに向かって巨大な泥の触手を振りかざす。
それに対し、ジーンは逃げるどころか、大きく一歩前へと踏み出した。
「……いいだろう。なら、俺の『一番恐ろしい事態』を入力(教え)してやる」
恋愛感情がバグり、魔法を信じない男が。
恐怖を喰らうシステムに対して、致命的なエラーコード(プロンプト・インジェクション)を打ち込むための、静かで、そして狂気的な反撃の準備を整えていた。




