第48話:音速の執着と、究極のエアロダイナミクス
第48話:音速の執着と、究極のエアロダイナミクス
ゴォォォォォォォォ……ッ!!
地下十階層の最深部。ギルドの真下に広がるのは、直径五十メートルに及ぶ巨大な『超高熱焼却炉』だった。
眼下で沸騰する三千度のマグマから、致死的な熱波と硫黄のガスが絶え間なく吹き上がっている。
(……火口中心部までの直線距離、約三十メートル。だが、背負っている壺は形状がいびつであり、表面の鉛封印の凹凸が深刻な空気抵抗を生む)
ジーンは、焼却炉の縁に立ち、大真面目な三白眼で投擲の弾道計算を行っていた。
(……さらに、漏れ出したガスによる内圧の変化で重心がミリ単位で偏随している。このまま投擲した場合、乱気流に巻き込まれて火口の縁に激突し、中身が飛散するリスクが五十八パーセント)
空気力学の観点から見て、背中の荷物は「投げるには最悪の形状」だった。
ジーンが【圧縮】を用いて壺の質量バランスを強制的に再設定しようとした、その時。
「……やっと、追い詰めたわよ。私の……私のエージェント……っ」
背後の暗がりから、カツン、カツンと、硬いブーツの音が響いた。
氷の天才剣士、セレスである。
ピンク色のガスを致死量まで吸い込んだ彼女の顔は、発情の熱で耳の先まで真っ赤に染まっている。だが、その瞳に宿っているのは、ただの愛欲ではない。
過剰分泌されたオキシトシンが引き起こした、純度百パーセントの『狂気的な独占欲』だった。
「どこまでも逃げるのね……。どんなに私が求めても、あなたはいつも、その泥だらけのブーツで遠くへ行っちゃう……っ」
チャキ……と。
セレスが、愛用の長剣を鞘からゆっくりと引き抜いた。
彼女の全身から、空気が凍りつくような冷たく、そしてドロドロに重い殺気が立ち昇る。
「だから……もう、どこにも行けないようにしてあげる。あなたのその自慢の足の腱、アタシが綺麗に切断してあげるわ。一生歩けなくなっても……私がずっと、あなたの車椅子を押してあげるからぁッ!!」
愛する男の足を奪い、永遠に自分の庇護下に置く。
狂気に満ちた愛の告白と共に、セレスの姿がフッと掻き消えた。
音速を超えた、神速の踏み込み。
標的は、ジーンの両足のアキレス腱と、膝の側副靭帯。一ミクロンの躊躇いもない、最高峰の剣士による完璧な「部位破壊」の剣閃。
(……対象の初速、推定マッハ一・二。極限の興奮状態により、リミッターを解除した筋収縮。狙いは下肢の駆動系か)
この絶対的な死線(あるいは愛の刃)を前にして。
ジーンは迎撃することも、回避することもしなかった。
彼はただ、無駄の全くない動作でくるりと背を向け、背負っていた百二十キロの『呪いの壺』を、セレスの剣閃の軌道上へと正確に割り込ませたのだ。
「えっ……!?」
セレスが驚愕に目を見開くが、すでに音速を超えた剣は止められない。
だが、刃がジーンの肉体を切り裂くことはなかった。
ギャリィィィィィィィィンッ!!!!
火花が、網膜を焼くほどの閃光となって地下空間に弾けた。
セレスの放った数百に及ぶ神速の斬撃が、ジーンが盾にした『呪いの壺』の表面へと容赦なく叩き込まれる。
(……素晴らしい。刃の進入角、コンマ一ミリの狂いもない。レーザー溶接のパルス照射にも匹敵する、完璧な切削精度だ)
ジーンは、両足のスタンスを広げて【圧縮】で自身の重心を大地に固定し、背後から受ける凄まじい衝撃をサスペンションのように吸収し続けた。
セレスの神速の刃が、壺の表面のいびつな装飾を削り落としていく。
さらに、超高速の摩擦によって発生した局所的な熱(数千度)が、ひび割れていた鉛の封印をドロドロに溶かし、刃の側面がそれを綺麗にならしながら再凝固させていく。
「あぁぁぁっ! なんで、なんで切れないのよぉッ!!」
セレスは涙目で叫びながら、さらに剣速を上げる。
斬れば斬るほど、摩擦熱で鉛と鉄が融合し、壺の表面の凹凸(ミクロン単位の傷)が削り取られ、磨き上げられていく。
そして、十秒後。
すべての斬撃を打ち終え、酸欠で膝をついたセレスの目の前には。
「……嘘、でしょ……」
いびつで黒光りしていた怪しい壺は、跡形もなくなっていた。
そこにあるのは、摩擦熱と神速の切削によって極限まで研磨され、一切の空気抵抗を生み出さない、銀色に輝く『完璧な流線型の砲弾』だった。
ひび割れも完全にロウ付け(溶接)され、ピンク色のガスの漏洩も完全にストップしている。
「……表面粗さ(Ra)、〇・〇一マイクロメートル以下。空気抵抗係数(Cd値)の極小化を確認した」
ジーンは、鏡面仕上げになった荷物の表面を革手袋で撫で、極めて満足げに頷いた。
「見事な表面処理だ、剣士。これなら、火口の乱気流のノイズを完全に無視できる」
ジーンは振り返り、息も絶え絶えになっているセレスに向けて、大真面目な『職人としての最大の賛辞』を送った。
「あ……ぁ……っ」
ジーンの足を切断して監禁するはずだった、最凶のヤンデレ剣閃。
しかし、それが「彼の荷物をピカピカに磨き上げ、最高のエアロダイナミクスを提供する」という、究極の職人技として消費されてしまった。
自分の愛と狂気が、この圧倒的な男の手のひらの上で、ただの『便利な研磨機』として扱われたという事実。
「ジーンの、役に……立っちゃったぁ……っ! アタシの剣で、ジーンが、喜んでるぅ……っ」
セレスの残虐な独占欲は、ジーンからの事務的な褒め言葉と、彼が放つ圧倒的な『雄の器のデカさ』の前に完全敗北した。
彼女は顔を極限まで赤くして床にへたり込み、両手で頬を押さえながら、快楽と羞恥でドロドロに溶けた喘ぎ声を漏らした。
「……最適化された質量。投擲の軌道を再計算する」
ジーンは、床で身悶えするセレスを完全に放置し、ピカピカになった流線型の壺を片手で持ち上げた。
いよいよ、元凶の廃棄の最終フェーズ。
彼が三千度のマグマの火口に向かって、完璧な投擲フォームに入ろうとした、まさにその時だった。




