第46話:凍てつく初恋と、獣の直進
第46話:凍てつく初恋と、獣の直進
地下十階層。
縦穴を降り立ったジーンの眼前に広がるのは、最深部の『超高熱焼却炉』へと続く、全長約百メートルの真っ直ぐな大回廊だった。
天井や壁面には無数の射出穴や振り子刃のスリットが確認できる。侵入者を物理的に排除するための、致死のトラップ群だ。
(……回廊内に設置された物理トラップの数、推定百二十以上。安全マージンを取って強行突破した場合、通過に要する時間は約三分。荷物への被弾リスクも考慮しなければならないな)
ジーンが、大真面目にトラップの動作周期を演算し始めた、その時だった。
ピキィィィィィッ……!!
突如、大気中の水分が急激に熱を奪われ、回廊の床と壁面が一瞬にして分厚い『氷』に覆われた。
前方から吹き付けてくるのは、絶対零度に近い凍てつく冷気。
だが、その氷の奥から聞こえてきたのは、およそこの気温にはそぐわない、ドロドロに溶けきった甘い吐息だった。
「……ジーン様。ああ、ジーン様……っ」
回廊の中央。
自身の唇を血が滲むほど噛み締め、濡れた瞳をハート型に歪ませた雨巫女シズクが立っていた。
ピンク色のガスを吸い込んだ彼女の顔は、氷点下の空間にありながら茹で上がるように赤く、全身から過剰な熱気を立ち昇らせている。
「ジーン様から、他の泥棒猫たちの匂いがします……っ。嫌だ、嫌だぁっ……! 私の冷たい氷で、あなたに染み付いた女の匂い、全部洗い流して、凍らせてあげますぅ……っ。そうすれば、あなたは永遠に、私だけの……っ!」
シズクのヤバすぎる独占欲が、回廊一帯の摩擦係数を強制的に『ゼロ』へと書き換える。
一切の引っ掛かりがない、完全な鏡面。一歩でも踏み出せば、自重で転倒し、身動きが取れなくなる絶対の罠。
さらに、その後方から。
「グルルルルッ……! アタシの番だ! 誰にも、匂いなんか消させねぇッ!」
獣の咆哮。
四つん這いになった獣姫ライラが、ピンク色のガスによって大脳新皮質(理性)を完全にシャットダウンさせ、純然たる『発情したメス獣』と化して猛スピードで突撃してきた。
ダダダダダダダッ!!
彼女の強靭な爪が、シズクの張った氷の床に突き刺さり、猛烈な推進力を生み出す。
時速八十キロを超える超加速。標的はジーンの首筋だ。そのまま押し倒し、己の欲望のままに交尾を果たすための、一ミクロンの躊躇いもない直線的な殺意。
前方は摩擦ゼロの氷。背後からは超音速の獣の突撃。
普通なら回避不能のデッドエンドである。
だが、背後に百二十キロの『呪いの壺』を背負った不器用なポーターは、この絶体絶命の愛の挟撃を前にしても、呼吸一つ乱していなかった。
(……床面の摩擦係数、限りなくゼロ。そして後方から接近する質量の運動エネルギーは推定五千ジュール。……なるほど、自力で走るよりも遥かに効率的な『射出カタパルト』が完成しているな)
ジーンの三白眼が、極めて冷徹なニュートン力学の解を弾き出した。
『スロット1:【圧縮】――対象:自身と背面の荷物の全体積(空気抵抗の極小化)』
『実行条件:対象の突進ベクトルをロスなく吸収し、前方への推進力(推力)へと完全変換する』
「ジィィィンッ! アタシを孕ませろォォッ!!」
よだれを撒き散らしながら跳躍したライラの巨大な質量が、ジーンの背中に激突する、そのコンマ一秒前。
スッ……。
ジーンは振り返ることなく、自身の骨盤を捻り、左足を絶妙な角度で後方へ跳ね上げた。
そして、彼の泥だらけのブーツの靴底が、空中に飛びかかってきたライラの背中――脊柱起立筋のど真ん中にピタリと吸い付くように接触した。
「え……?」
「あンっ!?」
シズクとライラが、同時に間の抜けた声を漏らす。
ジーンはライラを蹴り飛ばしたのではない。彼女の莫大な突進エネルギーを、自身の膝と股関節のサスペンションで完璧に吸収し、そのまま彼女の背中を『蹴り台』として利用したのだ。
同時に、その接触の瞬間の絶妙な圧力が、激しい戦闘でズレていたライラの胸椎を完璧な位置へと押し戻す(矯正する)。
ダンッ!!!
極上の整体マッサージと同時に引き出された、爆発的な反作用。
ライラの運動エネルギーを百パーセント乗せたジーンの肉体は、摩擦ゼロの氷の回廊へと、まるでライフルの弾丸のように撃ち出された。
「……ッ!」
ギュォォォォォォンッ!!
ジーンの体が、超音速で回廊を滑空する。
壁から振り子刃が落ちてくる。床から槍が突き出す。
だが、トラップのセンサーがジーンの接近を感知し、罠を作動させるよりも遥かに早く、彼の肉体はすでにその座標を通り過ぎていた。
シズクが凍らせた摩擦ゼロの壁と床。
ジーンはそれを『ピンボールの台』のように利用し、壁面を蹴り、天井を蹴り、一切の減速なく、ジグザグの軌道を描きながら数百メートルの回廊を一瞬にして突破していく。
ズザァァァァァッ!!
そして、数秒後。
ジーンは回廊の最奥――『超高熱焼却炉』の巨大な防爆扉の前で、ブーツの側面を氷の床に押し付け、完璧な姿勢で急停止を果たした。
「……素晴らしい初速と、完璧な滑走面だった。おかげでトラップの解除手順をすべてスキップできた。協力に感謝する」
ジーンは、百二十キロの荷物を背負い直しながら、はるか後方でポカンと口を開けているシズクとライラに向けて、大真面目に業務連絡(感謝)を口にした。
「あ……あぁぁっ……。ジーン様の重たい足が、アタシの背中を、グリって……っ! すんごい熱かった、もっと、もっと踏んでぇぇッ!」
超音速の踏み台にされ、背中のツボを完璧に突かれた獣姫は、床で四つん這いになったままビクビクと体を震わせ、完全に昇天した表情で涎を垂らしていた。
「嘘……私の氷が、あんな風に……。あんな無茶苦茶な動き……素敵ぃっ……!」
シズクもまた、自分を避けるどころか、自分の罠を最大限に利用して駆け抜けていった男の、圧倒的な『雄の決断力』に子宮の奥を熱くさせ、両手で顔を覆って身悶えしている。
どんなに重い愛と殺意を向けられても、この男にとっては、ただの「荷物を運ぶための便利なギミック」でしかない。
女たちのドロドロに溶けた狂熱と、男の絶対零度のプロ意識。
その永遠に交わることのない温度差(すれ違い)のまま、ジーンは背後の女たちを一瞥もすることなく、最終目的地である焼却炉の扉へと、迷いなく手をかけた。




