第45話:奈落の巣作りと、沈みゆく質量
第45話:奈落の巣作りと、沈みゆく質量
防爆扉の瓦礫を越え、ジーンが辿り着いたのは、ギルドの地下深くを貫く巨大な縦穴(排気シャフト)だった。
底が見えないほどの漆黒。湿った冷気が下から吹き上げ、大気の気圧差が鼓膜を微かに圧迫する。
目指す『超高熱焼却炉』は、この縦穴の最下層にある。
直線距離にして約二百メートルの落下ルート。階段やリフトの類は存在しない。
ジーンは崖っぷちに立ち、真下へと気怠げな三白眼を向けた。
(……現在、背負っている荷物(壺)の重量は百二十キログラム。この高度から自由落下した場合、終端速度と着地時の重力加速度(G)の処理に【圧縮】のリソースを過剰に割く必要がある。着地時の衝撃で、壺のパッキンが完全に破損するリスクが……)
ジーンが安全な降下ルート(空力抵抗の計算)を演算していた、その時だった。
「……ジィィィン……見つけたわ、アタシの番……っ」
上空の暗闇から、バサァッ!と巨大な風切羽の音が響いた。
急降下してきたのは、鳥人クロエである。ピンク色のガスをたっぷり吸い込んだ彼女の瞳孔は完全にハート型に開き、全身からは発情期特有の甘く重いフェロモンが放出されている。
「他の泥棒猫たちに汚される前に……アタシと一緒に空の巣へ行きましょう……っ。そして、一生アタシの卵を温めてぇ……っ!」
クロエの強靭な猛禽の脚が、ジーンの分厚い両肩をガシリと掴んだ。
彼女の巨大な翼が空気を叩き、猛烈な乱気流を発生させる。そのままジーンの体を、縦穴の天井――彼女のテリトリーである『空』へと強制的に引き上げようとする。
(……上方への強力な揚力。推定推力、約二・五トン。このままではルートを逆行させられるな)
ジーンが大真面目に上方へのベクトルを打ち消そうとした、まさにその瞬間。
「……ダメですわ、私の愛しい人。貴方は私と共に、永遠の砂の底で……ドロドロに溶け合うのです……ッ」
ズズズズズズッ……!!
ジーンの足元――縦穴の縁の硬い岩盤が、突如としてサラサラの細かい流砂へと変貌した。
呪い女王ネフェルタリ。彼女もまた、ピンク色のガスによって理性を完全に破壊され、顔を真っ赤に染めながら砂の中から現れた。
「さあ、私の胸の奥底(地下)へ……一緒に堕ちて……っ!」
流砂が意思を持つようにジーンの両足に絡みつき、凄まじい引力で彼を奈落の底へと引きずり込もうとする。
空へ連れ去ろうとするクロエの【揚力】と、地中へ引きずり込もうとするネフェルタリの【重力】。
「ジーンはアタシのモノよッ! 離しなさい、砂女ぁッ!」
「貴女こそ、その汚い爪をジーン様から離しなさいなッ!」
上下から迫る二つの致死的な殺意。
普通の人間の肉体であれば、二・五トンの力で上下に引っ張られれば、一瞬にして脊椎が引き千切られ、四肢がバラバラに分断される絶対の死地である。
だが。
二人の女の情念に物理的に引き裂かれそうになった不器用なポーターは、一ミクロンの焦りも見せず、冷徹なニュートン力学の解を弾き出していた。
(……上向きの揚力ベクトル、約二・五トン。下向きの重力ベクトル、約二・五トン。両者の力学的なエネルギーが、俺の肉体を支点にして完全に拮抗(相殺)している状態か)
ジーンの脳内で、無機質なスイッチが切り替わる。
『スロット1:【圧縮】――対象:自身の全関節、および筋肉群の物理的結合力』
『実行条件:肉体の分子間引力を極大化し、上下からの引っ張り力(張力)に対する絶対的な耐久性(剛体化)を確保する』
「……ルートの短縮に使えるな」
ジーンは、引き千切られそうになる肉体の痛みを【圧縮】で完全にロックすると。
そのまま抵抗を捨て、流砂に足を引かれるがままに、縦穴の空間へと身を投げ出した。
「え……?」
「ジーン、様……?」
クロエとネフェルタリが、同時に驚愕の声を上げる。
そして、暗黒の縦穴空間で、ニュートン力学の奇跡が起きた。
上へ向かおうとする鳥人の揚力と、下へ向かおうとする呪いの重力。
相反する二つのベクトルがジーンの肉体を介して完全に釣り合った結果、ジーンに掛かる重力加速度(9.8m/s²)が実質的に『ゼロ』になったのだ。
完全なる無重力状態(ゼロG)。
内臓がフワリと浮き上がるような浮遊感の中、ジーンは背中の壺のバランスを完璧に保ったまま、パラシュートも命綱もなしに、まるでエレベーターに乗っているかのように一定の低速で、縦穴をフワフワと降下し始めた。
「あ、あぁぁんっ……! ジーンの広い背中が、アタシの羽に擦れて……っ。熱い、熱いよぉっ……!」
「ジーン様の逞しい足が、私の砂を……もっと、もっと深くかき混ぜて……ッ!」
上下でジーンの肉体を挟み込む形になった二人の美女。
彼女たちは相反する力を出し合いながらも、ジーンの鋼のような筋肉との密着(摩擦)によって生じる物理的な熱に、オキシトシンの分泌量が限界を突破していた。
ジーンの安酒と雄の汗の匂いを至近距離で嗅ぎながら、二人は快楽にドロドロに溶け、熱い喘ぎ声を上げながら彼と共に奈落を降下していく。
(……パラシュートなしでの安全なエアドロップ(投下)。荷物の振動も皆無。極めて優秀な緩衝装置だ)
ジーンは、上下から聞こえる女たちの嬌声など完全に無視し、ただ大真面目に「着地ポイントまでの到達時間」をカウントダウンしていた。
トンッ。
約一分後。
ジーンのブーツが、一ミクロンの衝撃も立てずに、縦穴の最下層(地下十階)の床へと完璧な軟着陸を果たした。
「……エレベーターの代替システムとして、完璧な機能だった。推力の提供に感謝する」
ジーンは、両肩を掴んでいたクロエの爪と、足に絡みついていたネフェルタリの砂を、極めて事務的な動作で払い落とした。
「あ……あぁぁっ……もう、力が、入らないぃ……っ」
「ジーン様の、感触……最高、でしたわ……っ」
ジーンという絶対的な『質量』との摩擦に心身を焼き尽くされた二人の美女は、完全に腰を抜かし、溶けた表情のまま床に崩れ落ちた。
彼女たちの異常な独占欲すらも、単なる「安全な降下システム」として利用してしまった男。
「……現在地、地下十階層。目標の焼却炉まで、残り一つの回廊」
ジーンは背中の壺の位置を調整し、倒れ伏す二人の女を一瞥もすることなく、最深部の暗闇へと泥だらけのブーツを踏み出していくのだった。




