第42話:ピンク色の積載物と、蔓延するエラー
第42話:ピンク色の積載物と、蔓延するエラー
魔王という世界最大のバグが消去され、数週間が経過した自由交易都市クロスロード。
派遣型ギルド『銀の天秤』の分厚いオーク材の扉が、重苦しい軋み音を立てて開かれた。
「……宛先不明の積載物だ。差出人の記載もない。一時保管庫への搬入を許可してくれ」
泥だらけのブーツを踏み鳴らし、安酒と鉄錆の匂いを纏ったジーンが姿を現す。
彼の分厚い背中には、厳重な鉛の封印が施された、黒光りする巨大な『壺』が背負われていた。推定重量、約百二十キログラム。ジーンの強靭な大腿四頭筋と脊柱起立筋が、その不均等な重心を完璧なキネティックチェーン(運動連鎖)で制御し、一ミクロンのブレもなく運搬している。
「宛先不明? ちょっとジーン、そんな怪しいものギルド(うち)に持ち込まないでよ……って、何よその気味の悪い壺は」
受付カウンターの奥で、マリーが怪訝な顔で顔をしかめた。
その時だった。
ピキッ……。シューゥゥゥゥ……。
壺の表面を覆っていた鉛の封印に、微小なクラック(亀裂)が走った。
運搬時のわずかな気圧変化、あるいは内部の異常な膨張圧によるものか。亀裂から、高圧で圧縮されていた『ピンク色のガス(エアロゾル)』が、凄まじい勢いでギルド内へ噴出し始めたのだ。
「……? ボトルの密閉パッキンに破損。内容物の漏洩を確認」
ジーンが気怠げな三白眼で報告するのと同時に。
熟れすぎた果実と、重く甘い麝香を煮詰めたような強烈な匂いが、秒速二メートルの拡散速度でギルドの閉鎖空間を完全に満たした。
「な、なんなのこの匂い……っ、頭が、クラクラ……」
マリーがカウンターの奥で崩れ落ちる。
そして、ギルドのロビーでいつものようにジーンの「本日の配送スケジュール(お世話係)」を巡って牽制し合っていた十一人の美女たちが、その高濃度のピンクのガスを肺の最深部まで吸い込んだ。
ドクンッ……!!
「あ……ぁ……?」
氷の天才剣士セレスの指先から、愛用の長剣がカランと音を立てて滑り落ちた。
ガスの成分(神経毒)が肺胞から血中へと溶け込み、血液脳関門を瞬時に突破する。対象の扁桃体と視床下部が完全にハイジャックされ、脳内麻薬であるドーパミンと、強烈な愛着・独占欲を強制誘発するオキシトシンが、致死量ギリギリまで異常分泌されたのだ。
「あつ……い……。体が、変……っ」
大魔導士エララが、自身の豪奢なローブの胸元を力なく引き剥がす。
十一人の女たちの自律神経系が完全に狂い、副交感神経と交感神経が同時に暴走を始める。毛細血管が極限まで拡張し、透き通るような肌が茹でダコのように真っ赤に染め上がっていく。
過剰に分泌された汗腺からの水分が、彼女たちの衣服を濡らし、ギルド内にむせ返るような『発情の熱気』が充満した。
「ジーン、様……。私を……私の体を、メンテナンス、してぇ……っ」
箱入り聖女ソフィアが、焦点の定まらない潤んだ瞳――文字通り、ハート型に瞳孔が開いた異常な視線で、ジーンへとフラフラと歩み寄る。
「アタシの番……。逃がさねぇ、全部、アタシのモノだ……ッ」
獣姫ライラが、理性というストッパーを完全に破壊された獣の喘ぎ声を漏らしながら、四つん這いで床を這いずってくる。
セレスも、ヴィクトリアも、オードリーも、ネフェルタリも。
十一人の規格外のバグ女たちが、理性を失い、純度百パーセントの「愛欲」と「独占欲」の権化――ピンク色のゾンビと化して、一斉にジーンを押し倒そうと迫り来る。
一歩間違えれば、骨の髄までしゃぶり尽くされる絶対的なバイオハザード(修羅場)。
だが、その絶望的な狂気の中心に立つ不器用なポーターは。
(……心拍数、推定140BPM以上を観測。著しい体表温度の上昇と、瞳孔の散大。自発呼吸の乱れ)
ジーンの三白眼は、迫り来る絶世の美女たちの肉体美にも、吐息の甘さにも、一ミクロンも靡いていなかった。
(……この壺から漏れ出した揮発性の化学物質が、対象の脳内伝達物質を強制的に書き換えたか。脳内物質の異常分泌による集団発情。……極めて厄介なシステム障害だ)
一流のエージェントの思考は、彼女たちの熱烈な愛の暴走を、大真面目に『毒物による機材の熱暴走』として処理していた。
「ああっ、ジーン……! 私を抱いて、今すぐその分厚い腕で……ッ!」
最速の剣士であるセレスが、筋力のタガを外した常軌を逸した跳躍で、ジーンの首筋へと抱きつこうと飛びかかってくる。
『実行条件:対象の重心移動を予測し、自身のスタンスをコンマ一秒で最適化。接触のベクトルを完全に見切る』
スッ……。
ジーンの泥だらけのブーツが、床板を擦る音すら立てずに半歩だけ横へスライドした。
腸腰筋の収縮を利用し、自身の重心を瞬時に十センチ沈み込ませる『ゼロステップ(無動作の回避)』。
セレスの熱く湿った抱擁は、ジーンの分厚いコートの表面をかすめるだけで、そのまま空を切って床へと転がった。
「……このままガスがギルド外へ流出すれば、都市機能(物流網)が完全に麻痺する」
ジーンは、床で甘い吐息を漏らして身悶えするセレスを一瞥もせず、背負っていた百二十キロの『呪いの壺』のストラップをギリッと締め直した。
「パンデミックの拡大を防ぐには、発生源の速やかな『廃棄』が不可欠だ」
恐怖も、欲情も、焦りも存在しない。
そこにあるのは、有害指定された貨物を完璧に処理しようとする、狂気的なまでのエージェントのプロ意識のみ。
「……危険物処理のプロトコルに移行する。これより対象物を、ギルド地下十階層に存在する『超高熱焼却炉』へ物理的にデリバリーする」
ジーンは、迫り来る女たちのピンク色の波を、極めて鬱陶しそうな三白眼で見据えながら、地下へと続く重厚な鉄扉へと歩み出した。
「待って、行かないで……私を置いていかないでぇっ!」
「ジィィィィィン……ッ! アタシの熱を、アンタの冷たい手で冷ましてよぉぉッ!」
背後からは、欲望のストッパーが完全に壊れ、涎を垂らしながら追いすがってくる十一人のバグ女たちの足音。
魔王の討伐よりも遥かに過酷で、物理的にまとわりついてくる「極大の愛欲」という名のエラーを回避しながらの、地獄の危険物運搬ミッションが、今まさに幕を開けたのだった。




