第37話:気圧の暴落と、世界をバグらせる大質量
第37話:気圧の暴落と、世界をバグらせる大質量
大陸の中央に位置する大平原。その先には、全大陸の物流の心臓部たる『王都』がそびえ立っている。
ジーンは、数百キロの積載物を背負い、泥だらけのブーツで王都へと続く街道を正確なペースで歩いていた。
ピキッ……。
突如、ジーンの鼓膜が不快なノイズを拾った。
空気が鳴ったのではない。空間そのものが、ガラスのようにひび割れる音。
(……大気圧の急激な低下。現在値、推定七百ヘクトパスカル。急性の低酸素状態と、内耳と外気の圧力差による三半規管のエラーが生じている)
ジーンの三白眼が、極めて冷静に周囲の『物理的な崩壊』をスキャンする。
急激な気圧変化により、彼の鼻腔内の毛細血管からツーッと一筋の血が流れ落ち、鉄錆と血の匂いが空気に混ざる。大気中のマナが異常な密度で凝縮され、呼吸をするたびに肺に泥を流し込まれるような、圧倒的な空気の『粘度』が彼の横隔膜を圧迫していた。
「……ルート上の環境に、致命的な異常が発生しているな」
ジーンは擦り切れた革手袋で鼻血を無造作に拭い、荷物のストラップを締め直した。
その直後。
彼の前方十メートル先の空間が、ノイズ走るモザイクのように歪み、一人の少女が『出力』された。
銀色の髪に、無機質な金色の瞳。
人間としての生命活動の気配が一切ない、精巧な機械のような少女。
「……空間座標(X:441, Y:902)にて、イレギュラーな個体を捕捉」
少女は、感情の全くこもっていない声でジーンを見つめた。
「私は世界の正常性を監視するシステム、デバッガー『マキナ』。……あなたですね。摩擦係数をゼロにし、エントロピーの増大を反転させ、物理法則をハッキングしてこの世界にノイズを撒き散らしている『異常な荷物運び(バグ・ポーター)』は」
「……人違いだ。俺はただの時給制のエージェントだ。物流の維持に必要な障害排除を行っているに過ぎない」
ジーンは、大真面目な顔でマキナの指摘を否定した。
彼にとって、これまでの数々の神業は魔法でもハッキングでもなく、単なる「筋肉と物理の応用」という認識でしかない。
「……自己評価の認識ズレを確認。しかし、もはやあなたの異常性を修正している猶予はありません」
マキナの金色の瞳が、王都のさらに奥――大陸の果ての地平線へと向けられた。
ジーンもまた、気怠げな視線をそちらへ向ける。
ズズズズズズズッ……!!
地平線の彼方で、天地を繋ぐほどの巨大な『黒い渦』が、凄まじい地響きと共に膨張し始めていた。
それは魔力などという生易しいものではない。純粋な重力異常。周囲の山々が砕け、大地が液状化してブラックホールのような渦の中心へと吸い込まれていく。
「……あれは『魔王』。この世界の長年の稼働によって蓄積された、修復不可能なエラーデータの集合体。……要するに、世界を初期化するための破壊機構です」
マキナの声に、微かな諦観が混じる。
「魔王の進行ルート上には、大陸最大の人口とインフラを抱える『王都』が存在します。現在の重力波の拡大速度から計算して、王都はあと三時間で完全に圧殺され、消滅します。……世界の終焉です。あなたのような規格外のバグ持ちであっても、あの絶対質量からは逃げることしか……」
「……待て」
世界の終わりを告げるマキナの言葉を、ジーンの低く平坦な声が遮った。
彼は、遠く離れた地平線で山脈を飲み込んでいる『魔王』を、ただただ鬱陶しそうな三白眼で見据えていた。
「王都が消滅する、と言ったか」
「はい。あの大質量のエラーは、あらゆる物理法則を圧壊させます。王都の防壁も、軍隊も、すべて無意味に……」
「……王都の中央第一倉庫には、俺が明日納品する予定の重要物資が保管されている。さらに、あそこは大陸全土の流通を支えるメインハブ(中継地点)だ。王都が潰れれば、俺が請け負っている八件の長期契約がすべて『遅延』を引き起こす」
「え……?」
無機質なデバッガーであるマキナの顔に、初めて「困惑」のエラーが生じた。
世界の終わり、人類の滅亡。そんな壮大な悲劇を前にして、目の前の泥だらけの男は、純粋に『自分の仕事のスケジュールが狂うこと』に対してのみ、本気で不機嫌になっていたのだ。
(……王都の消失による、サプライチェーンの完全な崩壊。放置すれば、俺のプロとしての信用問題に関わる)
ジーンは深く、重く息を吸い込んだ。
大胸筋と肋間筋が拡張し、粘度の高い大気を肺の最深部まで強制的に引き込む。細胞内のミトコンドリアが一気に稼働し、氷点下の大気圧異常の中でも、彼の強靭な肉体は完璧な熱量を生み出し始めた。
『スロット1:空き』
『スロット2:空き』
『スロット3:空き』
ジーンの脳内で、これまでで最大規模の物理演算領域がクリア(確保)される。
「お前はシステムの監視役と言ったな」
「……は、はい。ですが、私にはあの規模のエラーを修正する権限は……」
「なら、大人しくそこで見ていろ」
ジーンは、百キロを超える荷物袋を降ろすことなく、分厚い革手袋の留め具をギリッと音を立てて締め直した。
首を左右に鳴らすと、頸椎の軋む音が、重苦しい大気の中に響く。
「……ルート上の巨大なバグ(ゴミ)は、俺が物理的に『保守』する」
恐怖も、正義感も、悲壮な決意も一ミクロンも存在しない。
あるのはただ、納期を守り抜こうとする一流のエージェントとしての、狂気的なまでのプロ意識のみ。
世界の根幹を揺るがす絶対的な破壊の権化(魔王)に対し、恋愛感情と常識が致命的にバグった『最強のリュックサック』が、大真面目に殴り込みをかけようとしていた。




