第36.5話:異常質量の集積と、女神の観測
第36.5話:異常質量の集積と、女神の観測
神聖なるオーラも、厳かな静寂も存在しない。
無機質な白い空間――神界と呼ばれる次元の最奥で、一人の女性が深くため息をついた。
「あー……もう。警告が鳴りっぱなしじゃないの」
目の下に濃いクマを作った銀髪の女。彼女の周囲には、無数の空中に浮かぶモニター(ステータス画面)が展開されている。
彼女はパイプから紫煙を吐き出しながら、モニターの一つを指先で気怠げに弾いた。
彼女の名はマキナ。
この世界の正常性を監視するシステム――自称『転生管理の女神』にして、デバッガーである。
そして、かつて一人の男をこの世界に転生させ、【撥水】のスキルと【ポーター】のジョブを与えた張本人でもあった。
「……一つの座標に、これほどのエラー(バグ女たち)が密集しているなんて」
マキナが見つめるモニターの先には、自由交易都市クロスロードのギルド『銀の天秤』が映し出されていた。
マグマと水路、砂と金塊。そして、国を滅ぼしかねない十一人の規格外のマドンナたちが、血みどろのマウント合戦を繰り広げている。
「聖女、魔導士、剣士、獣姫、女王、技師、水騎士、鳥人、呪い王、ドワーフ……挙句の果てに雨巫女。世界中のネームド級のバグが、たった一つのギルドに集結してる。これ、普通なら処理落ちで空間ごと崩壊するレベルの異常質量(データ量)よ?」
マキナはパイプを咥えたまま、信じられないというように首を横に振った。
「私が彼に与えた【撥水】と【圧縮】は、確かにこの世界の物理エンジンに対する『管理者権限』だったけど……まさか、それを女を惹きつけるフェロモン代わりに使うなんて想定外よ。どんな物理ハック(耐震補強)をしてるのよ、あのバカ(ポーター)は」
呆れたように笑いながらも、マキナの金色の瞳には、どこか彼を面白がるような、保護者のような色が浮かんでいた。
「……ふふっ。やっぱり『魔法』なんていう小細工に頼らない、前世で二百キロの鉄の塊を自力で持ち上げてたような狂人にしか、この『世界の管理者ツール』の反動は耐えられないわよね」
マキナは、モニターを切り替える。
今度は、大平原を一人で歩く泥だらけの男――ジーンの姿が映し出された。
「勇者どもが派手な魔法を撃つたびに、この世界のサーバー(質量)はどんどん重くなる。……頼むわよ、私の最高傑作。この重すぎる世界を、一番下から全部背負ってちょうだい」
彼女がそう呟いた、その時だった。
ピィィィィィィンッ!!!!
神界の空間全体を、赤黒い警告光が包み込んだ。
無数に展開されていたモニターが次々とノイズに塗れ、文字化けしたエラーログが滝のように流れ落ちていく。
「――ッ! なによ、これ……っ」
マキナの顔から、ダウナーな余裕が完全に消し飛んだ。
彼女は弾かれたようにメインモニターを叩く。そこに映し出されたのは、ジーンが向かっている大平原のさらに奥……王都の彼方の地平線だった。
空間そのものが黒くひび割れ、天地を繋ぐほどの巨大な『渦』が膨張を始めている。
純粋な重力異常。周囲の大地が液状化し、あらゆる物理法則を飲み込む特異点。
「……嘘でしょ。一万年間蓄積されたメモリリークが、ついに決壊したっていうの……!?」
マキナの指先が震える。
それは、ただの強力な魔物などではない。この世界が抱え込んだ修復不可能なエラーデータの集合体。
世界を初期化するための破壊機構――『魔王』の復活。
「進行ルート上には王都がある……このままじゃ、大陸の流通網ごと世界が圧殺されるわ!」
マキナはパイプを放り投げ、慌ててコンソールを叩く。
「ダメだ、私の権限じゃ止められない……! 誰か、あの異常質量を直接止めることができる存在は……ッ!」
マキナの視線が、モニターの端――黒い渦に向かって、ただひたすらに正確なペースで歩き続ける、一人の泥だらけの男に釘付けになった。
彼はまだ、空の異変に気づいていない。ただ「王都の倉庫への納品」というスケジュールを守るためだけに歩いている。
「……ジーン」
マキナは、祈るようにその名を呼んだ。
「……そろそろ、あなたにも気づいてもらわないと困るわ。あなたが今まで弾いてきたものが『水』や『摩擦』じゃなくて……『世界からの干渉そのもの』だってことに」
マキナの体が、光の粒子となって神界から薄れていく。
自ら下界へと降り立ち、あの不器用で最強のリュックサックに、世界の終焉を『告知』するために。
日常のドタバタはここで終わる。
恋愛感情も常識もバグった底辺ポーターと、世界の根幹を揺るがす絶対的な破壊の権化(魔王)との、常軌を逸した修羅場の幕が、今まさに上がろうとしていた。




