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第36話:流体力学の解体と、集結する十一個のバグ

第36話:流体力学の解体と、集結する十一個のバグ


 一年中、暴力的な冷雨が降り注ぐ『慟哭の盆地』。

 ジーンが展開する半径三メートルの【絶対乾燥領域(ドライゾーン)】のすぐ外側で、数万トンの水で形作られた巨大な水竜(ウォーター・ドラゴン)が、大気を震わせる咆哮を上げた。


 ゴアァァァァァッ!!


 神として恐れられる大自然の化身。その巨大な顎(あぎと)が、不遜にも雨を弾き返す小さな乾燥領域ごと、ジーンとシズクを丸飲みしようと襲いかかってくる。

 まるで、ダムの決壊が意思を持って襲いかかってくるような、絶対的な死の質量。


「ひっ……! 逃げて、ジーン様……ッ!」


 ジーンのコートに包まれ、命の熱を取り戻したばかりのシズクが絶望の悲鳴を上げる。

 だが、彼女の前に立つ分厚い背中は、一歩も引かない。

 ジーンの気怠げな三白眼は、迫り来る神の威容など一ミクロンも捉えていなかった。


(……対象の推力、約八千トン。構成物質は純度九九パーセントのH2O。大気中のマナを接着剤として水分子の凝集力(表面張力)を異常強化し、形態を維持しているだけの『巨大な流体』に過ぎない)


 一流のエージェントの脳内バグは、神話の怪物を『ルートを塞ぐ水たまり(物理エラー)』として極めてドライに解剖し、処理手順(プロトコル)を弾き出した。


『スロット1:【撥水】――対象:竜を構成する水分子の凝集力(ファンデルワールス力)』

『実行条件:分子間反発を極大化し、流体の構造維持ベクトルを強制的に破綻させる』


 カチリ、と。

 ジーンの脳内で、無機質なスイッチが押される。

 彼は泥濘(ぬかるみ)にブーツを沈み込ませ、右の拳を腰の横にピタリと引き絞った。


「フゥゥゥ……ッ!」


 強靭な大腿四頭筋と大臀筋が爆発的に収縮し、泥を蹴り砕く。

 大地から得た反作用が、腸腰筋から脊椎を伝い、極限まで捻り上げられた広背筋と大胸筋の弾力を通して、右の拳へと一ミクロンのロスもなく伝達される。

 そして、水竜の巨大な牙がジーンに届く、その一瞬手前。


 ズドォォォォンッ!!


 ジーンの拳が、水竜の鼻先に叩き込まれた。

 魔法の光はない。ただ、百パーセントの筋肉の連動が生み出した純粋な物理打撃。

 だが、その拳にコーティングされた極大の【撥水】が、水竜の巨体を構成していた『水分子の結合』を、接触した一点からドミノ倒しのように完全に弾き裂いた。


「ガ、アァァ……ッ!?」


 水竜の形を保っていた接着剤(マナ)が物理的にキャンセルされる。

 数万トンの巨大な竜は、断末魔の咆哮を上げる間もなく、一瞬にしてただの「巨大な水の塊」へと崩壊し、ジーンの絶対乾燥領域を避けるようにして左右にザバァァァッと崩れ落ちた。


「……ルート上の水たまり(障害)の排除、完了。搬送業務を再開する」


 神の化身をただのワンパンで文字通り「水に流した」男は、手袋の泥をパンパンと払い、大真面目な顔で安全確認を終了した。


「あ……ぁ……」


 シズクは、地面にへたり込んだまま、瞬きすら忘れてその背中を見つめていた。

 何百年もこの盆地を支配してきた水竜が、ただの不器用な男の『拳一つ』で消し飛ばされた。

 彼女を凍死から救い、絶対的な力で脅威を排除したこの男の、安酒と鉄錆の匂いが染み付いたコートに包まれながら、雨巫女の心臓は完全に限界を突破した。


(……この人は、私のためだけに、神様すらも退けてくれた……!)


 恋愛感情の回路がバグっている男の「単なるルート確保」を、シズクは『自分への究極の愛の証明』だと完全に誤認した。

 彼女の冷え切っていた細胞の隅々にまで、男への激重な執着と初恋の熱がドロドロに溶け込んでいく。


「……体温の低下は止まったな。自力で動けるはずだ」


 ジーンは、熱っぽい瞳で彼を見上げる美少女の顔など一切見ず、背負っていた巨大な荷物袋を再び背負い直した。


「コートは後で、自由交易都市クロスロードのギルド『銀の天秤』に返却しろ。紛失すれば給与から天引きされるからな。……じゃあな」


 ジーンはそれだけを言い残し、泥だらけのブーツ音を立てて、再び雨の中(撥水で濡れないが)へと歩き去っていった。


「ジーン、様……っ」


 シズクは、彼が残していった大きなコートを、自身の胸にギュッと力強く抱きしめた。

 男の雄の匂いと温もりが、彼女の理性を完全に焼き尽くしていた。


「……絶対に、返しに行きます。このコートごと、私自身を……あなたの元へ」


 雨巫女の清廉な瞳に、暗く、重く、そして狂気的なまでの『メスの独占欲』が宿った。


 ◆


 数日後。

 自由交易都市クロスロード。派遣型ギルド『銀の天秤』。


 かつて木造の温かみがあったその建物は、今や完全に異次元の魔境と化していた。

 床の半分はマグマ(ブリュンヒルデ)が煮えたぎり、もう半分は運河の水(ビアンカ)で水没。その上には金塊(ヴィクトリア)が散乱し、砂化のフィールド(ネフェルタリ)が展開。

 地下からはドリル音(オードリー)が地響きを立て、上空の梁には鳥の巣(クロエ)が鎮座。

 そして、ソフィア、エララ、セレス、ライラの四人が、ジーンへの『同じ熱病』を共有した同志(シスターフッド)として、獲物を待ち構えるように目を光らせている。

 十人の規格外の美女たちによる、地形すら歪める絶対不可侵の陣地。

 受付嬢のマリーは、すでに魂が肉体から分離し、天井の隅から半透明な姿で下界を見下ろしていた。


 キィィ……。


 その時、ギルドの崩れかけた扉が、静かに開いた。

 十人のヒロインたちの視線が一斉に扉へと突き刺さる。


「……ここが、ギルド『銀の天秤』……ジーン様の、帰る場所……」


 そこに立っていたのは、一人の清楚な黒髪の少女だった。

 だが、問題は彼女の容姿ではない。

 彼女が、その華奢な体には不釣り合いな、泥と鉄錆の匂いが染み付いた『分厚い男物のコート』を、これ見よがしに羽織っていたことだ。


 ピタッ、と。

 ギルド内の空気が、絶対零度に凍りついた。


「ちょっと、あんた……」


 エララが、こめかみに青筋を浮かべながら杖を握りしめる。


「……そのコート、どこで手に入れたの。それは、あいつがいつも着ている……」


「それに、あんたのその匂い……あいつの体温の匂いが、べっとりとこびり付いているじゃないのッ!」


 ヴィクトリアの金糸の扇が、メキリと音を立ててへし折れた。

 十人の美女たちの放つ、国を滅ぼしかねないほどの巨大な殺気が、一斉にシズクへと向けられる。


 だが、シズクは一歩も引かなかった。

 彼女は、ジーンのコートの襟を両手でギュッと握りしめ、十人の「ライバル」たちを、氷のように冷たく、そしてドス黒い瞳で見つめ返した。


「……ジーン様は、凍え死にそうだった私を、その手で直接温めてくださったのです。このコートは、ジーン様からの『求愛の証』。……泥棒猫の皆様には、指一本触れさせません」


「「「「「「「「「「……殺すッ!!!!」」」」」」」」」」


 十人の狂気と同盟が、十一人の完全なる絶望(デッドロック)へと進化した瞬間。

 次元、地形、資本、権力、そして『彼から直接与えられた温もり』という物理的マウント。

 全十一人の美女がギルドに集結し、恋愛バグ持ちの不器用なポーターを巡る戦いは、ついに誰一人として後戻りできない、世界の終焉を賭けた最終戦争(ハルマゲドン)へと突入してしまった。


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