第35話:絶対乾燥領域と、熱を奪う水竜
第35話:絶対乾燥領域と、熱を奪う水竜
一年中、暴力的な冷雨が降り注ぐ異常気象地帯『慟哭の盆地』。
泥水の中に倒れ伏した雨巫女・シズクの肉体は、死の淵を彷徨っていた。
(……シバリング(筋肉の震え)の消失。深部体温が三十二度を下回った証拠だ。脳の体温調節中枢が完全に麻痺し、心室細動(心停止)の引き金が引かれる寸前)
ジーンの三白眼が、泥だらけの白装束に身を包んだ少女のエラー状態を冷徹にスキャンする。
気化熱によって1秒ごとに命の熱を奪っていくこの『雨』を完全に遮断しなければ、いかなる処置も無意味となる。
『スロット1:【撥水】――対象:自身の現在座標を中心とする、半径三メートルの半球状の大気』
『実行条件:侵入するすべての水分子の進行ベクトルを反転。物理的な【絶対乾燥領域】の構築』
カチリ、と。脳の奥で無機質なスイッチが押された。
次の瞬間。
ザザザザァァァッ……!! ――ピタッ。
ジーンとシズクを中心とした半径三メートルの空間から、一切の雨音が「消滅」した。
見えないドーム状の撥水力場が、上空から叩きつける数万トンの雨粒を弾き返し、泥濘の水分すらも外側へと強制的に排斥する。
嵐の真っ只中でありながら、彼らの周囲だけが、まるで空調の効いた屋内のように完全に乾ききった空間へと変貌したのだ。
「……保管環境の初期化、完了。続いて、内部バッテリーの急速充電に移行する」
ジーンは背負っていた巨大な荷物を下ろすと、雨を弾き返して完全に乾いている自身の分厚いコートを脱ぎ、凍りつくシズクの小さな体を包み込んだ。
だが、冷え切った肉体には、外からの保温だけでは足りない。
「……少し、圧をかける。舌を噛むなよ」
ジーンの擦り切れた革手袋が、シズクの首筋――頸動脈の周囲と、鎖骨下動脈のラインにピタリと添えられる。
それは、宝飾職人がミリ単位の極小の爪を留めるような、一ミクロンの狂いもない緻密で完璧な指の配置だった。
同時に、ジーン自身の分厚い大胸筋と、百二十キロのデッドリフトを軽々と上げる広背筋が、内部で凄まじい密度でアイドリング(等尺性収縮)を開始する。筋肉の駆動によって爆発的に生み出された『熱』が、指先を通してシズクの冷え切った血管へと直接ポンプのように注ぎ込まれていく。
「あ……っ、ぁっ……」
物理的な血流の強制循環。
凍りついていたシズクの血が、ジーンの指先から送り込まれる熱波(一酸化窒素による血管拡張)によって、急速に融解していく。
内臓が軋むような痛みの直後、足の指先まで一気に爆発的な熱が駆け巡り、チアノーゼを起こしていた彼女の唇に、鮮やかな赤みが戻った。
「はぁっ、はぁっ……! あ、温かい……。火みたいに……熱い……っ」
シズクは、大きく喘ぎながら目を覚ました。
水竜への生贄として、この冷たい雨の中で孤独に凍死するはずだった彼女。
だが今、彼女を包み込んでいるのは、泥水の冷たさではなく、男の安酒と鉄錆と、咽せ返るような雄の汗の匂い。
見上げれば、自分を絶対に雨に濡らさない無敵のドームの中で、気怠げな三白眼の男が、自分を見下ろしている。
(……なんだ、この人。こんな大嵐の中で……私のためだけに、世界を切り取ってくれたの……?)
自分を助けるために、己の命の熱を注ぎ込んでくれている(とシズクは完全に誤認している)。
極限の寒さに死にかけていた彼女の心臓に、この圧倒的な『熱量』と『絶対的な安心感』は、猛毒よりも強烈に効いた。
「……あ、あぁ……っ。行かないで……私を、離さないで……っ」
シズクは、ジーンの分厚い腕に縋り付き、その熱を逃がすまいと、自分の小さな胸に彼の大きな手を力強く押し当てた。
神に仕える巫女としての清廉さなど、もうどこにもない。ただ、温もりを求める一匹のメスとしての強烈な執着が、彼女の顔を火照らせていた。
だが。
(……対象の握力の回復を確認。手指の運動機能が正常値に戻ったな)
自分に擦り寄り、胸元に手を押し当ててくる美少女の切実な誘惑を前にしても。
ジーンの脳内バグは、ただ『バッテリーが再起動し、機材の自律稼働が可能になった』という、極めて事務的なエラー解除の報告として処理していた。
「……バイタルサインの安定を確認した。コートは後でギルドに返却しろ」
ジーンはシズクの柔らかい手から、事務的に自身の腕を引き抜いた。
その瞬間。
ゴロロロロロロォォォォォォッ!!!!
空を覆う鉛色の雲が渦を巻き、大気を震わせる巨大な咆哮が響き渡った。
雨を弾き返すジーンの【絶対乾燥領域】の存在が、この盆地を支配する自然の化身――『水竜』の逆鱗に触れたのだ。
濁流の中から、数万トンの水で形作られた巨大な竜の首が鎌首をもたげ、ジーンたちを跡形もなく押し潰そうと、その大口を開いた。
「ひっ……! 水竜様が……ダメ、あなたが殺されちゃう! 逃げて……ッ!」
シズクが絶望の悲鳴を上げる。
だが、ジーンは逃げるどころか、気怠げに首を鳴らしながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……ルート上に、巨大な障害物が出現したな」
ジーンの視線の先にあるのは、神として恐れられる強大な竜ではない。
ただの『荷物運びの邪魔になる、規格外にデカい水たまり』。
彼は泥だらけの革手袋の留め具を締め直し、大真面目な顔で、物理法則を蹂躙するためのクリアリング演算を開始した。




