第34話:摩擦係数ゼロの保管と、熱を奪う雨
第34話:摩擦係数ゼロの保管と、熱を奪う雨
極寒の強制労働施設『アビス・タルタロス』の地下採掘場。
マイナス三十度の永久凍土の上に、ジーンへの『同じ熱病』に冒された十人の同盟が集結し、異常な熱気と殺気が渦巻いていた。
「さあ、見つけ出しなさい! 私の内部フレームを狂わせた、あの朴念仁を!」
女王ヴィクトリアの号令と共に、十人の美女たちが一斉にジーンへと詰め寄る。
鳥人クロエが上空から退路を塞ぎ、天才技師オードリーの装甲車が轟音を立て、水上騎士ビアンカと鍛冶師ブリュンヒルデが左右から距離を詰める。さらにネフェルタリの砂化フィールドが展開し、魔法使い陣が詠唱の構えに入っていた。
「ひぃぃぃっ……! ば、化け物の群れだ……ッ!」
床に這いつくばる元勇者アーサーと、エレナ、ガウェインの三人は、国家を滅ぼしかねない圧倒的な暴力を前に、呼吸すら忘れてガタガタと震えていた。
だが、当のジーンの気怠げな三白眼は、自身に向けられた十人分の巨大な『愛憎(殺意)』を前にしても、一ミクロンの動揺も見せていなかった。
(……搬入ルート上に、VIP指定の機材(美女たち)が十体同時に密集。極めて危険な多重衝突の兆候あり。このままでは積載物同士が干渉し、致命的な破損を招く)
ジーンの脳内システムは、この色恋の修羅場を、純然たる『倉庫内の保管レイアウトの破綻』として処理していた。
彼は小さく息を吐くと、泥だらけのブーツで永久凍土の床を一度だけ、強く踏み鳴らした。
『スロット1:【撥水】――対象:半径三十メートル以内の永久凍土の表面張力』
『実行条件:氷の表面に存在する水分子の極性を反転。あらゆる物体との間に生じる物理的な【摩擦係数】を完全なゼロに設定する』
カチリ、と。
魔法の光など一切ない。ただ、物理法則の根幹をハッキングする無機質なスイッチが押された。
「……えっ?」
「きゃぁぁっ!?」
次の瞬間、詰め寄ろうとしていた十人の美女たちの足元が、まるで石鹸水の上を歩くように完全に滑り、次々と床に転倒した。
立ち上がろうとしても、摩擦が完全にゼロになった氷の上では、ブーツの底も、装甲車のキャタピラも、ただ虚しく空転するだけだ。誰一人として、一歩も前に進むことができない。
「な、何これ!? 足が、踏ん張れないわ!」
「ジーン様! 魔法ですか!? いえ、魔力の波動が一切ありませんわ!」
「クソッ、アタシのドリルが空回りして……ッ!」
顔を真っ赤にして藻掻く十人の美女たち。
その光景は、側から見ればシュールなギャグそのものだったが、ジーン本人は極めて大真面目だった。
「……機材の安全確保、完了。対象の自律稼働を物理的にロックし、一時的な『保管状態』へ移行した」
摩擦ゼロの氷上で、ただ一人。
ジーンだけは、百六十キロの重量を背負って行うスプリットスクワットで鍛え抜かれた異常な体幹と、足裏の微細な重心移動のみで、一ミリのブレもなく直立していた。
強靭なハムストリングスと大臀筋が、摩擦のない空間のバランスを完璧に支配しているのだ。
「ちょっ、待ちなさい! まさか、私たちをここに置いて逃げる気!?」
転倒したまま顔を上げるヴィクトリアに、ジーンは気怠げに見下ろしながら答えた。
「俺はスケジュールに従って移動するだけだ。お前たちは極めて壊れやすい高級機材だ。摩擦が戻るまで、そこで大人しくしていろ」
ジーンは、巨大な熱源炉を背負い直し、氷の上を滑るようにして(あるいは滑る力を推進力に変換して)歩き始めた。
「待って! アタシをこんなにしておいて、許さないんだからァァッ!」
「絶対に捕まえますわよ、ジーン様ぁぁッ!」
十人の美女たちの熱狂的な叫び声が、極寒の採掘場に響き渡る。
その光景を、元勇者アーサーは呆然と見送っていた。
かつて自分が「無能なリュックサック」と見下していた男は、今や規格外の美女たちに狂気的なまでに愛され、追われ、そして彼女たちすらも「ただの荷物」として一瞥もせずに去っていく絶対者となっていた。
アーサーの心臓が、後悔と、絶対的な敗北感によって冷たく凍りついた。
◆
数日後。
ジーンは、アビス・タルタロスから遠く離れた、大陸中部に位置する『慟哭の盆地』へと足を踏み入れていた。
ザァァァァァァァッ……!!
空は厚い鉛色の雲に覆われ、視界を遮るほどの暴力的な豪雨が絶え間なく降り注いでいる。
ここは一年中、決して雨が止むことのない異常気象地帯。
(……大気中の湿度、常時一〇〇パーセント。雨粒の物理的な打撃による運動エネルギーに加え、体表の水分の気化熱(潜熱)が、急激にコア体温を奪っていく。極めて悪質な輸送ルートだ)
ジーンのシステムUIが、大気と雨の危険性をアラートで告げる。
彼は泥だらけのコートの襟を立て、頭から【撥水】の極小フィールドを展開している。雨粒が彼の体に触れる数ミリ手前で、見えない盾に弾かれ、チリチリと音を立てて弾け飛んでいく。
だが、冷気そのものは容赦なく彼の体力を削りにきていた。
ズプッ、ズプッ……。
水を含んだ泥濘が、ブーツに絡みつく。
ジーンは、この最悪の環境下で、指定された『ある荷物』の回収座標へと向かっていた。
(……この雨は、単なる気象現象ではない。大気中のマナが強制的に水分子へと変換されている。局所的な水竜の活性化による、生態系エラーの可能性が高いな)
雨と泥の匂い。そして、微かな血と鉄錆の匂いが混ざる。
ジーンの三白眼が、前方の濁流のほとりに、ピクリと動く『何か』を捉えた。
「……」
ジーンは足音を消して歩み寄る。
そこには、泥水の中に倒れ伏している一人の少女の姿があった。
白装束は泥と血に汚れ、長く美しい黒髪が雨に打たれて顔に張り付いている。
彼女こそが、この異常気象の元凶である水竜を鎮める使命を負った『雨巫女』シズク。
「……はぁっ、はぁっ……。水竜様、怒りを……鎮め……っ」
シズクの唇は、極度の低体温症によって紫色に変色し、全身が激しい震え(シバリング)に襲われていた。
雨の冷たさが、彼女の体内から急速に熱を奪い、心機能の停止まで秒読みの段階に入っている。
彼女は、この泥水の中で孤独に凍死する運命にあった。
「……ルート上に、熱量が枯渇寸前の機材を発見」
ジーンは、倒れ伏す少女の横に片膝をついた。
「……え……?」
シズクが薄れゆく意識の中で目を開けると、鉛色の空を背景にして、安酒と雄の汗の匂いを纏った分厚い男が、気怠げに見下ろしていた。
(……深部体温、推定三十三度。致死ライン突破まで残り三分。早急な『熱源の供給』と『乾燥領域』の確保が必要だ)
世界で最も不器用なポーターは、泥だらけの革手袋の留め具を静かに外し、大真面目な顔で『極限の保温作業』の演算を開始した。




