第33話:極寒のヘルニアと、ルート上の元勇者
第33話:極寒のヘルニアと、ルート上の元勇者
大陸最北端に位置する、絶対零度の強制労働施設『アビス・タルタロス』。
外気温マイナス三十度。吹き荒れるブリザードが体表温度を容赦なく奪い、血管を急激に収縮させ、筋肉を凍ったゴムのように硬直させる死の環境。
その地下採掘場で、ボロ布を纏った男が、巨大な氷鉱石を背負って絶望的な悲鳴を上げていた。
「ぐあぁぁッ……! 腰が、腰がァッ!」
かつてジーンを「荷物を濡らさないだけのリュック」と嘲笑し、パーティーから追放した勇者アーサーである。
闘技国家で奴隷に堕ちた彼らは、この極寒の監獄へ売り飛ばされ、過酷な採掘労働の動力源として文字通り使い潰されていた。
マイナス三十度という異常な環境下で、疲労困憊のアーサーの肉体は完全に限界を迎えていた。
無理な姿勢で数百キロの鉱石を持ち上げようとした瞬間、彼の腰椎(第四・第五腰椎間)の椎間板が激しい圧力に耐えきれず、内部の髄核が後方へ突出したのだ。
「痛ぇ、痛ぇよぉッ……! 足に力が入らねぇッ!」
神経根(坐骨神経)への致命的な圧迫。アーサーは両足の感覚を失い、雪と泥にまみれた地面へ崩れ落ちた。
その真上から、彼が支えきれなくなった数百キロの氷鉱石が、無慈悲に落下してくる。
「アーサーッ!?」
少し離れた場所でツルハシを振るっていた大魔導士エレナと重戦士ガウェインが絶叫するが、間に合わない。
アーサーが死を覚悟し、恐怖に顔を歪めて目を閉じた、その時だった。
「……搬入ルート上に、倒壊しかけた障害物を確認」
極寒の採掘場に、氷のノイズを切り裂くような、ひどく平坦で気怠げな声が響いた。
直後。
『スロット1:【圧縮】――対象:落下中の氷鉱石の絶対質量』
『スロット2:【撥水】――対象:自身に衝突する冷気(マイナス三十度の大気分子)』
ズドォォォォンッ!!
アーサーの頭上数センチ。
分厚い泥だらけのブーツが硬い永久凍土を踏み砕き、岩のように隆起した広背筋と大円筋のサスペンションが、落下してくる数百キロの氷鉱石を『左腕一本』でガシリと受け止めていた。
「え……?」
アーサーが目を開けると、そこには、巨大な『熱源炉』を背負った、安酒と鉄錆の匂いを纏う男の背中があった。
「ジ、ジーン……!?」
アーサーの声が震える。
かつて見下していたはずの雑用係。だが今、目の前に立つ男の背中は、絶望的なマイナス三十度の極寒の中にありながら、一切の震え(シバリング)すら起こしていない。
【撥水】によって冷気の熱伝導ベクトルを完全に弾き返し、完璧なコア体温を維持しているのだ。
「……」
ジーンは無表情のまま、アーサーを一瞥した。
だが、彼の三白眼には、かつての仲間への恨みも、奴隷に落ちぶれた勇者への冷笑や見下しも、一ミクロンも含まれていなかった。
ただ、大真面目に『ルートを塞ぐ壊れた機材』を診断する、冷徹な職人の目。
(……対象の腰椎前弯の完全な喪失。椎間板の突出による坐骨神経の圧迫。このままではルートのクリアリングに支障が出るな)
「動くな。内部フレームが歪んでいる」
ジーンは左腕で受け止めていた氷鉱石を無造作に放り投げると、片膝をつき、分厚い革手袋でアーサーの腰椎を直接鷲掴みにした。
「ひぃッ!? な、何をする気だ、ジーン! 俺が悪かった、あの時は俺が……ッ!」
アーサーが泣き叫んで謝罪しようとするが、ジーンは彼の『感情』など全く聞いていない。
「……重量物を持ち上げる際、重心が前方に五センチズレている。結果として腰椎への負荷が四百パーセント増加する、初心者にありがちなエラーだ。舌を噛むなよ」
ジーンの大拇指が、マイナス三十度の冷気でガチガチに硬直したアーサーの脊柱起立筋の隙間に、物理的なジャッキのように食い込んでいく。
「ぎゃあぁぁぁぁッ!?」
ゴキリ、と。
骨と軟骨が正しい座標へと強制的に押し戻される、生々しい整復音が響く。
突出していた髄核が元の位置へと収まり、圧迫されていた神経が一気に解放される。激痛の直後、失われていたアーサーの両足の感覚が、ドクンと脈打って蘇った。
「あ……あれ? 痛く、ない……。足が、動く……」
アーサーは呆然と立ち上がった。
彼らがどんなに過酷な労働を強いられようと、かつてはジーンのこの『極上のメンテナンス』があったからこそ、肉体を破壊されずに勇者として戦えていたのだと、今更ながらに思い知らされる。
「ジーン……お前、俺を助けて……っ」
アーサーの目から、後悔の涙が溢れ出した。
だが。
「……障害物の排除、完了。これで荷物が通れる」
ジーンは、手袋の汚れをパンパンと払い、背中の熱源炉を背負い直した。
「え……?」
「……重心は踵の少し前に置け。骨盤を後傾させれば、またヘルニアになるぞ」
それだけ。
ジーンは、涙を流すアーサーに再会の言葉を掛けることも、復讐の笑みを浮かべることもなく、ただ『ルート上のゴミを端に退けた』という事務的な態度で、そのまま監獄の奥へと歩き去っていった。
そこにあるのは、憎しみよりも残酷な『完全な無関心』。
アーサーは、自分たちが彼にとって「もう見下す価値すらない存在」になっていることを悟り、極寒の採掘場で一人、絶望の涙を流して崩れ落ちた。
◆
その直後。
アビス・タルタロスの堅牢な氷の防壁が、突如として地鳴りと共に大爆発を起こした。
「な、なんだ敵襲か!?」
「看守長! 上空から正体不明の飛行物体が……いや、ドリルが!? マグマが!?」
警報が鳴り響く中、吹き飛んだ分厚い氷の壁から、凄まじい熱波と水飛沫を撒き散らしながら、一台の巨大な『蒸気式ドリル装甲車(オードリー製)』が突入してきた。
「……ふぅ。座標計算は完璧ね。ここが、あの男の次の現場ってわけか」
装甲車の上に立ち、油まみれのゴーグルを押し上げたオードリー。
その背後には、大魔導士エララ、聖女ソフィア、剣士セレス、獣姫ライラ、砂漠の女王ヴィクトリア、鳥人クロエ、呪い女王ネフェルタリ、水上騎士ビアンカ、そして天才鍛冶師ブリュンヒルデ。
極寒の死の監獄に、ジーンへの『同じ熱病』に冒された十人の同盟が、圧倒的な火力と資本と物理を伴って降臨した。
「さあ、見つけ出しなさい! 私の内部フレームを狂わせた、あの朴念仁を!」
「「「「「「「「「オーッ!!!!」」」」」」」」」
マイナス三十度の絶対零度の空間が、十人のヒロインたちの異常な熱気(執着)によって、一瞬にして灼熱の修羅場へと変貌する。
床で這いつくばっていたアーサーたちは、かつて自分たちが捨てた「ただの荷物持ち」が、世界を滅ぼしかねないほどの国家権力と規格外のバケモノたちを従える(追われている)姿を目の当たりにし、もはや恐怖で泡を吹いて気絶するしかなかった。




