第30話:エントロピーの残滓と、玉座の転移
第30話:エントロピーの残滓と、玉座の転移
死の砂漠の奥深く、古代王朝の廃墟。
ジーンの分厚いコートの胸元で、呪い女王ネフェルタリは子供のように泣きじゃくっていた。
「……お願い、行かないで。私には、あなたしか……っ」
何百年もの間、誰の温もりにも触れることができなかった孤独な女王。彼女の呪い(エントロピーの強制増大)を無効化し、抱きしめてくれたこの男は、彼女にとって世界のすべてと同義だった。
このまま、永遠に彼の腕の中に閉じこもっていたい。
だが、その切実な願いは、世界で最も無機質なエージェントの「業務プロトコル」によって無慈悲に打ち砕かれる。
「……納品物の検品は済んだか。サインを」
ジーンは、胸元で泣き濡れるネフェルタリの細い肩を、極めて慎重に、だが確固たる力で引き剥がした。
「え……?」
「俺の契約は、この祭祀用具を『納品可能状態の受取人に引き渡す』ことまでだ。これ以上の滞在は、次期スケジュールの圧迫に直結する」
ジーンは、涙で濡れた彼女の顔など一瞥もせず、無表情で羊皮紙と羽ペンを差し出した。
彼にとって、この「呪いの解除」は、あくまで納品書にサインをもらうための【障害排除プロセス】に過ぎなかったのだ。
「そんな……。あなたが私を、救ってくれたのに……? 私の、この呪いを解いて……」
「呪いなどという非論理的なシステムは管轄外だ。俺が行ったのは、局所重力場の【圧縮】と、分子崩壊エネルギーへの【撥水】コーティングに過ぎない」
ジーンは、震える彼女の手を取って無理やり羽ペンを握らせ、羊皮紙にサインを書かせた。
「……それに、根本的なエラー(エントロピーの異常増大)は解決していない。俺がコーティングを解除すれば、お前の周囲は再び砂化のフィールドに包まれる」
ジーンの言葉に、ネフェルタリは血の気を引かせた。
彼が去れば、自分はまた『誰も触れられない呪われた孤独な怪物』に戻ってしまう。
「嫌ッ……! なら、ずっと私の側にいて! 王国を、この黄金の玉座を半分あげるから! だから……ッ!」
「……俺は、一箇所に留まらない。荷物を運ぶのが、俺の存在意義だ」
ジーンは羊皮紙を懐にしまうと、再び泥だらけのブーツで歩き始めた。
彼女の美しい顔にも、莫大な富にも、そして彼女が再び孤独な呪いに沈むという悲劇的な運命にも、一ミクロンの感傷も抱かずに。
「……じゃあな。重力場の【圧縮】は三日間だけ持続させておく。その間に、自分にかかっているエラー(呪い)の物理的な原因を解明しろ。……また潰れるぞ」
ジーンは、廃墟の出口に向かって歩き出す。
振り返ることは一度もなかった。
「……ああ、ああぁぁぁぁっ……!」
残されたネフェルタリは、冷たい石の床に膝をつき、遠ざかる彼の背中に向かって手を伸ばした。
だが、彼女の指先が彼に届くことはない。
自分を完全な『メス』に作り変えておいて、責任を取らずに去っていく不器用な職人。
孤独な女王の心臓に、これまで感じたことのない、暗く、重く、そして狂気的なまでの『独占欲』が根を張った。
「……逃がさない。あなたが私を直したのだから……あなたは、私のものよ」
ネフェルタリの瞳に、古代の王族特有の、呪いよりも恐ろしい『執着の炎』が灯った。
◆
数日後。
自由交易都市クロスロード。派遣型ギルド『銀の天秤』。
「アタシたちの匂いが、ヒューマン(彼)の卵を温めるのよ!」
「……その鳥の羽根を全部毟って、焼き鳥にしてやるわ!」
「地下のドリル音、ホントにイライラするわね!」
「この土地は私のものよ! 愚民どもは出ていきなさい!」
「ジーン様は私の……っ!」
一階は水没。床には金塊。地下からは削岩音。空中には鳥の巣。そして魔法と剣と戦斧が飛び交う地上戦(ソフィア、エララ、セレス、ライラ)。
八人の美女が入り乱れ、次元と地形を破壊し尽くす、まさにこの世の終わりのようなマウント合戦。
受付嬢のマリーは、すでに意識を遠い宇宙の果てへ飛ばし、虚ろな笑顔で空中の鳥の巣に手を振っていた。
その時だった。
ギィィィィィンッ……!!
突如、ギルドの中央空間が、強烈な光と共に歪んだ。
空間転移の魔方陣。
だが、現れたのはただの人間ではない。
数百トンの質量を持つ、古代王朝の『黄金の玉座』そのものが、ギルドの中央の床(ヴィクトリアの金塊の上)を押し潰すようにして物理的に転移してきたのだ。
「な、何よこれ!?」
「アタシの金塊が潰されたわ!?」
美女たちが動きを止め、その巨大な玉座を見上げる。
玉座に深く腰掛け、足を組んで見下ろしているのは、褐色の肌を持つ呪い女王、ネフェルタリだった。
「……ふん。随分と騒がしい場所ね。ここが、あの男の『倉庫』かしら」
ネフェルタリは、冷ややかな瞳で八人を見渡した。
「あんた、誰よ! ここはアタシたちの……!」
「黙りなさい、下賎な者ども」
ライラが食ってかかろうとした瞬間、ネフェルタリが指先を軽く鳴らす。
ザァァァァッ……!
彼女の周囲一メートルにあったヴィクトリアの金塊や、木製の机が、呪いのフィールド(エントロピー増大)に触れた瞬間、一斉に乾いた砂となって崩れ落ちた。
「「「「「「「「なっ……!?」」」」」」」」
圧倒的な『死の領域』。
美女たちが一斉に青ざめ、後ずさる。
「私の体に触れ、この呪いを無効化できたのは、世界でただ一人……あの男だけよ」
ネフェルタリは、自身の細い肩を抱きしめるように手を添え、恍惚とした表情で頬を染めた。
「つまり、私の体は物理的にも運命的にも、彼にしか抱くことができない。……私が『正妻』であることは、宇宙の法則が証明しているわ」
誰も触れられない呪いの肉体を盾にした、絶対的な『唯一無二』の証明マウント。
九人目の美女の乱入により、ギルドの修羅場は、ついに「誰が彼に一番近いか」という次元を超え、「誰の肉体が彼専用に作られているか」という究極の生存競争へと足を踏み入れてしまった。




