第29話:エントロピーの反転と、砂にならない指先
第29話:エントロピーの反転と、砂にならない指先
大陸東部の死の砂漠の奥深く。
かつて栄華を極めた古代王朝の王宮は、今やすべてが風化し、静寂だけが支配する巨大な廃墟となっていた。
その最深部にある玉座の間。
黄金の装飾品すらも砂に還った冷たい石の床に、一人の美しい少女がうずくまり、細い喉から血の泡を吐き出していた。
「ガハッ……、はぁっ、あぁ……っ」
古代王朝の末裔にして、この死の土地を統べる『呪い女王』ネフェルタリ。
彼女の肉体には、生まれながらにして残酷な呪いが掛けられている。
第一に、彼女の肌に触れたあらゆる有機物・無機物は、瞬時に風化して『砂』へと変貌してしまうこと。
第二に、その呪いの代償として、彼女自身が常に『見えない巨大な重圧』に全身を押し潰され続けていることだ。
ミシッ……ミシミシッ……。
「痛い……っ。骨が、内臓が……潰れる……っ!」
呪いの重圧は日増しに強くなり、今や彼女の華奢な肋骨を内側へとひしゃげさせ、肺と心臓を物理的に圧殺しようとしていた。酸素を取り込めなくなった血流は滞り、褐色の美しい肌はどす黒い土気色へと変色している。
彼女は、誰かに助けを求めることすら許されない。
もし誰かが彼女に触れて助け起こそうとすれば、その者は瞬時に乾いた砂の塊となって崩れ落ちてしまうからだ。
孤独と激痛の中で、女王は己の死を、ただ冷たい石の床の上で受け入れるしかなかった。
「……現在時刻、十二時十五分。指定の座標への到着を確認した」
その時。
死の静寂に包まれた玉座の間に、極めて平坦で、場違いなほど気怠げな男の声が響いた。
「え……?」
ネフェルタリが霞む視線を上げると、そこには、巨大な木箱(古代王朝の祭祀用具)を背負った、泥だらけのコートを着た男が立っていた。
ジーンである。
「……納品物だ。検品とサインを頼む」
ジーンは無造作に木箱を下ろすと、羊皮紙を片手にネフェルタリの方へと歩み寄ってきた。
「く、来るな……っ!」
ネフェルタリは、激痛に顔を歪めながら必死に叫んだ。
「私に、近づくな……! 私は呪われている……。私の周囲一メートルに入れば、お前の肉体は水分を失い、砂と化して……っ、ガハッ!」
叫んだ反動で、彼女の肋骨がさらに深く肺に食い込み、再び大量の血を吐き出す。
だが、ジーンの足は一歩も止まらない。
彼が展開するシステムUIは、彼女の言う「呪い」などという非科学的なオカルトを一瞥もせず、極めて唯物論的な『物理エラー』として処理していた。
(……対象の周囲に、局所的な重力異常(推定三十G)を観測。肋骨の変形により胸郭の容積が二割まで減少し、極度の鬱血と低酸素脳症を併発している。
加えて、対象の表皮から発生する未知の干渉波。……接触した物体の分子間結合を強制的に切断する『エントロピーの急速増大(砂化)』のフィールドか。非常に厄介な保管環境だ)
ジーンの三白眼は、解剖医のように彼女の致死的な状態を冷徹にスキャンした。
「……納品先の責任者が自壊しては、サインが貰えない。スケジュールの遅延は俺の評価に関わる」
ジーンは羊皮紙を懐にしまうと、無造作にネフェルタリの「致死の領域(半径一メートル)」へと足を踏み入れた。
「やめろォォッ!!」
ネフェルタリが絶望の悲鳴を上げる。
彼女の呪い(エントロピー増大のフィールド)がジーンの肉体に触れ、コートの袖口から急速に風化が始まろうとした、その瞬間。
『スロット1:【撥水】――対象:自身に接触するすべての分子結合切断エネルギー』
『実行条件:分子間反発の出力を最大化し、エントロピーの進行ベクトルを完全弾き返し(キャンセル)』
ジーンの脳内で、物理的なスイッチが切り替わる。
対象を濡らさないためのスキルが、物理的な劣化・風化(酸化と分子崩壊)の進行ベクトルそのものを弾き返す絶対防御の盾へと変貌する。
「なっ……!?」
ネフェルタリは、大きく目を見開いた。
ジーンの体は、砂にならない。
彼の擦り切れた革手袋が、彼女の呪いに完全に反発しながら、その細い肩をガシリと力強く掴んだのだ。
「……第一段階、分子崩壊の弾き返し成功。続いて、過積載の解除に移行する」
ジーンはネフェルタリの肩を抱き寄せたまま、もう片方の手を彼女の胸元(心臓の上)にかざした。
『スロット2:【圧縮】――対象:対象者の周囲に発生している局所的な重力波(三十G)』
『実行条件:重力場の絶対質量をゼログラムまで強制縮小』
「フゥゥゥ……ッ」
ジーンの呼吸が深く、重く吐き出される。
彼の分厚い広背筋と大円筋が凄まじい密度で収縮し、己の肉体から発する純粋な「力」と【圧縮】のシステムを同調させる。
ネフェルタリを圧殺しようとしていた三十Gの重力場が、万力をかけられたようにギリギリと物理的に押し潰され、そして。
フッ……と。
彼女を縛り付けていた数トンの重圧が、嘘のように消え去った。
「あ……ぁっ……!」
ミシミシと、ひしゃげていた軟骨が元の位置へと戻っていく。
潰れかけていた肺が、十数年ぶりに本来の容積まで大きく膨らむ。
冷たく、澱んでいた王宮の空気が、彼女の気管支を満たし、窒息しかけていた細胞の一つ一つに歓喜の酸素を送り込んだ。
「……過剰積載の解除、完了。バイタルサイン、正常値へ復帰」
ジーンは、まるで重い荷物を下ろした時のように、気怠げに息を吐いた。
彼が見ているのは、何百年もの間、誰も触れることのできなかった美しき女王の素肌ではない。ただ「納品先の機材が正常に稼働を再開したこと」への事務的な安堵だけだった。
「……息が」
ネフェルタリは、ゆっくりと目を開けた。
内臓を軋ませる重力はない。
そして何より、彼女の目の前には、彼女に触れても『砂にならない男』がいる。
「息が、できる……。体が、軽い……。それに、あなたは……」
ネフェルタリは、震える手でジーンの泥だらけのコートの胸元に触れた。
ザラザラとした布の感触。そしてその奥から伝わってくる、力強い心音と、安酒と汗と鉄錆が混ざった、圧倒的な男の体温。
彼女の呪いは、彼の前では完全に無力化されていた。
「あ、あああ……っ!」
生まれて初めて「他者の温もり」に触れた呪いの女王の瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
孤独な王座で死ぬ運命だった彼女の心臓は、この瞬間、圧倒的な敗北感と、生まれて初めての『初恋の熱』によって、完全にドロドロに溶かされていた。
「……お願い、離さないで……っ! もう一人に、しないで……!」
ネフェルタリは、王としてのプライドも威厳もすべて投げ捨て、ジーンの分厚い胸板に縋り付いて声を上げて泣きじゃくった。
だが。
そんな彼女の切実な体温を受け止めながらも、ジーンの気怠げな三白眼は、ただ手に持った羊皮紙のシワを伸ばしていた。
(……これで、機材の自壊の危険性は排除された。あとは、サインをもらって次の現場に向かうだけだ)
触れるものを砂にする孤独な女王と、恋愛感情の回路が完全にバグっているエージェント。
死の砂漠の王宮で、決して交わることのない温度差が、静かに、だが強烈にすれ違っていた。




