第28話:空力特性のエラーと、見下ろす愛の巣
第28話:空力特性のエラーと、見下ろす愛の巣
標高三千メートル、『裂空の峡谷』の頂上。
大気中の酸素濃度は平地の約七割まで低下し、外気温は氷点下二十度を下回っている。剥き出しの岩肌には霜が張り付き、強風が刃のように体温を削り取っていく過酷な極寒の地だ。
ダンッ……!
その絶壁の淵から、巨大な荷物袋を背負い、鳥人の少女を片腕に抱えたジーンが、重いブーツの音を立てて山頂の観測所へと着地した。
「……現在時刻、十七時四十五分。指定座標への機材の搬入、および案内役の輸送を完了した」
ジーンは、数百キロのバッテリーとアンテナを無造作に雪原へ下ろすと、極めて平坦な声で告げた。
彼の分厚い肉体は、氷点下の暴風の中にありながら、褐色脂肪細胞の極限駆動と筋肉の微細な震え(シバリング)によって完璧にコア体温を維持している。吐き出す白い息は、強靭な内燃機関から排出される排気ガスのように力強かった。
「……っ、あ……」
一方、ジーンの腕の中から下ろされたクロエは、雪の上にへたり込んだまま、呆然と彼を見上げていた。
鳥人にとって、空は自分の支配領域だった。それを、この男はただの『腕力』と『物理法則のハック』だけで蹂躙し、絶対的な死の恐怖から彼女を救い出したのだ。
クロエは、自分を抱きしめていた男の腕の感触――鋼のような筋肉の硬さと、安酒と汗と鉄錆の匂いが混ざった、圧倒的な『雄』の熱量が離れていくことに、耐え難い喪失感を覚えていた。
「……あ、あのさ……翼なき者。いや、ジーン……」
クロエは、極寒の雪の上にいるというのに、顔を耳の先まで真っ赤に染め、自身の純白の翼で身を包むようにしてモジモジと身をよじった。
空の覇者としての気位は、もうどこにもない。そこにあるのは、自分より強いオスに完全にメロメロにされた、ただの無防備なメス鳥の顔だった。
「アタシ、あんたのこと見くびってた。……あんたの背中、すごく広くて……温かかった。だから、その……これからも、アタシが空からあんたの道を……」
一生、あなたの背中にしがみついていたい。
そんな、誇り高き鳥人による事実上の『番』の告白。
だが。
「……いや。お前のその状態では、今後のルート案内は不可能だ」
ジーンの気怠げな三白眼は、彼女の潤んだ瞳や、熱っぽい上目遣いなどを一ミクロンも捉えていなかった。
「えっ……?」
「右翼の初列風切および、雨覆羽のキューティクルが激しく損傷している。乱気流の中で無理な制動をかけたせいだな」
ジーンは、大真面目な顔でクロエの翼の羽毛を指差した。
「このまま飛べば、気流の剥離が生じ、飛行時の空気抵抗が約十二パーセント増加する。空力特性の致命的なエラーだ。尾脂腺からの分泌液でコーティングをやり直すか、それが無理なら……これを使え」
ジーンは懐から、自分がブーツや革手袋の手入れに使っている『メンテナンス用の防錆油』の小瓶を取り出し、クロエの手にポンと押し付けた。
「機材の手入れを怠れば、命に関わるぞ。……では、俺は帰る」
ジーンは納品書に自分のサインを書き込むと、そのまま絶壁の淵へと歩み寄った。
「ちょっ、待って!? 帰るって、歩いて山を下りるの!? もう日が暮れるわよ!」
「歩かない」
ジーンは、三百キロの荷物がなくなったことで身軽になった体を、躊躇いなく氷点下の虚空へと投げ出した。
「なっ……!?」
『スロット1:【撥水】――対象:自身の前面に衝突する大気分子』
『スロット2:【圧縮】――対象:落下に伴う重力加速度(G)の減衰』
鳥人でも恐れる三千メートルの自由落下。
だがジーンは、空中で手足を広げてムササビのように姿勢を安定させると、【撥水】で空気抵抗のクッションを作り出し、最適な終端速度を維持したまま、音もなく下界の闇の中へと消えていった。
「…………あ、ああ……っ」
残されたクロエは、自分の手に押し付けられた無骨なオイルの小瓶を、両手で大切に、大切に胸に抱きしめた。
ただのメンテナンス用の油なのに、男の指の熱がまだ微かに残っている。
「……生意気なヒューマン。アタシをこんなにメス鳥にさせといて、一人で逃げられると思わないことね」
クロエの瞳に、鳥人特有の『一度見つけた獲物(番)は地の果てまで逃がさない』という、恐ろしい執着の光が宿った。
◆
数日後。
自由交易都市クロスロード。派遣型ギルド『銀の天秤』。
「……だから! 私の『時給三枚の男』を、このドブ水の中から早く引き上げなさいよ、水没騎士!」
「誰がドブ水よ! この神聖な運河の水を、あんたの汚い金塊で汚さないでちょうだい!」
「うるさいわね! 地下から響くこの工事の音、どうにかしなさいよ!」
「フハハハ! アタシとアイツの愛の工房建設は誰にも止められないわ!」
「ジ、ジーン様の右足は私が……!」
一階は水上騎士ビアンカが引き込んだ運河の水で水没し、床には女王ヴィクトリアの金塊が散乱。地下からは天才技師オードリーの削岩ドリルが地響きを立て、聖女ソフィア、大魔導士エララ、剣士セレス、獣姫ライラが魔法と物理で殺し合いを展開している。
七人の美女たちによる、地形すら変容させる狂気の陣取り合戦。
もはやギルドの原型を留めていない地獄の坩堝の中で、受付嬢のマリーは完全に思考を放棄し、虚空を見つめて涅槃の境地に達していた。
その時。
吹き抜けになったギルドの高い天井――一本だけ無事に残っていた太い大黒柱の梁の上から、冷笑的な声が降ってきた。
「……ふん。地べたを這いずり回る羽虫どもが、随分と騒がしいわね」
「「「「「「「……は?」」」」」」」
七人の美女たちが、一斉に天井を見上げる。
そこには、純白の翼を広げた鳥人の少女、クロエが優雅に腰掛けていた。
だが、問題は彼女の存在ではない。
彼女が座っているその場所には、ヴィクトリアの高級な絹のクッション、セレスのベルベットのマント、ソフィアの神聖な祈りの布など、ヒロインたちの持ち物が勝手に集められ、鳥の『巣』の形に編み込まれていたのだ。
「ちょっ……! あんた、アタシのマントを勝手に何してるのよ!?」
「私の特注の絹布を、泥だらけの足で踏むなァッ!」
下から怒号が飛ぶが、クロエは全く意に介さず、ジーンから貰ったオイルの小瓶を頬にすり寄せながら恍惚と笑った。
「鳥人のルールでは、一番高い場所に『愛の巣』を作ったメスが、強いオスの番になるの。……あんたたちの匂いがついた布は、ヒューマン(彼)の卵を温めるための最高の断熱材になるわ」
「「「「「「「……殺すッ!!!!」」」」」」」
上空からの完全な見下ろしマウント。
そして「卵」という生々しすぎるワードの爆弾投下。
八人目の美女による『三次元(立体)からの侵略』が開始され、ギルドの修羅場は、ついに重力を無視した空中戦へと次元を上昇させてしまった。




