第27話:乱気流の失速と、ゼログラムの背中
第27話:乱気流の失速と、ゼログラムの背中
大陸北部にそびえ立つ、標高三千メートルを超える断崖絶壁――『裂空の峡谷』。
吹き荒れる風速二十メートルの強風の中、ジーンは岩肌に杭を打ち込みながら、一歩ずつ無言で垂直の壁を登っていた。
彼の背中には、山頂の観測所へ届けるための数百キロの機材が括り付けられている。
「遅いわよ、翼なき者! そんな重い塊を背負って地べたを這いずり回るなんて、本当に不便で哀れな生き物ね!」
ジーンの頭上数十メートルの空を、優雅に旋回しながら嘲笑うのは、純白の翼を持つ鳥人の少女、クロエ。
この空域の案内役として雇われた彼女は、強風を完璧に読み切り、一羽の猛禽類のように空を支配していた。
(……現在高度、二千八百メートル。気圧低下により大気中の酸素濃度が平地の七割に減少。だが、俺の心肺機能に異常はない。……それよりも)
ジーンの気怠げな三白眼は、空を舞う少女の美しい翼ではなく、彼女の背後にそびえる巨大な岩壁の『微細な亀裂』を冷徹にスキャンしていた。
(……昨夜の冷え込みによる岩盤内部の地下水の凍結膨張。そして現在の直射日光による融解。岩の接着面が、物理的な限界点を超えている)
一流のエージェントの脳内バグが、大自然の崩壊プロセスを完璧に予測した、その数秒後だった。
ゴゴゴゴゴォォォォッ……!!
「え……?」
クロエが空中で振り返った瞬間。
彼女の頭上にそびえていた数万トンの大岩壁が、まるでパズルのピースが外れたかのように、一斉に崩落を開始した。
巨大な岩の雨が、峡谷に向かって雪崩れ込んでくる。
「きゃぁぁっ!?」
だが、真の恐怖は岩そのものではなかった。
数万トンの岩盤が一気に落下したことで、峡谷の空気が強烈に押し出され、予測不能な巨大な乱気流が発生したのだ。
バサバサバサッ!!
「嘘っ、風が……風が、掴めないッ!?」
クロエの顔が絶望に青ざめる。
鳥人の飛行は、軽量化された中空の骨格と、風の揚力を捉える風切羽によって成立している。しかし、四方八方から叩きつけられる暴力的な下降気流の前では、どれほど羽ばたこうとも揚力は生まれず、ただ空気を空振りするだけだ。
大胸筋と烏口上筋が痙攣を起こし、彼女の体はコントロールを失って、岩の雨が降る奈落の底へと真っ逆さまに墜落し始めた。
(……対象の失速を確認。完全なフリーフォール状態。このままではルート上の案内役がロストするな)
ジーンは岩壁に打ち込んだ杭から手を離し、一切の躊躇なく、崩れ落ちる虚空へと身を投げ出した。
『スロット1:【圧縮】――対象:自身および背負っている全積載物の絶対質量のゼログラム化』
『スロット2:【撥水】――対象:足裏を中心とする半径三メートルの大気分子(窒素・酸素)』
『実行条件:分子間反発の出力を最大化し、空気を下方へ強制排気することによる、人工的な上昇気流の生成』
カチリ、と。脳の奥で物理的なスイッチが切り替わる。
空を飛ぶ魔法ではない。大気という「流体」を物理的に蹴り飛ばす、狂気的なシステムハック。
「フゥゥゥ……ッ!!」
ジーンの擦り切れたブーツが、何もない虚空を強く踏み抜いた。
分厚い大腿四頭筋と大臀筋が爆発的に収縮し、強靭な脚力が空気を物理的に「蹴り砕く」。【撥水】によって逃げ場を失った大気分子が真下へと猛烈な勢いで圧縮・排気され、その強大な反作用が、ゼログラム化したジーンの体をロケットのように空高く打ち上げた。
ドォォォォンッ!!
空中で見えない壁を蹴り砕くような爆音。
落下していくクロエの視界に、泥だらけのコートを着た「翼なき男」が、信じられない速度で下から突き上げてくるのが見えた。
「なっ……!?」
クロエが驚愕の声を上げる暇もなく、ジーンは空中で彼女の腰を分厚い腕でガシリと抱き寄せた。
「……暴れるな。翼の骨が折れるぞ」
男の低く気怠げな声が、強風のノイズを切り裂いて鼓膜に届く。
「あ、あんた……なんで空を……っ、重い荷物を背負ってるのに……っ!」
「……一時的な質量の調整だ。それより、ダウンバーストの範囲を抜ける。舌を噛むなよ」
ジーンはクロエを片腕で抱いたまま、再び何もない虚空を蹴り上げた。
ダンッ! ダンッ!
空気を蹴るたびに、周囲に強烈な衝撃波が発生し、頭上から降り注いでいた数トンの岩石が、その風圧だけで粉々に砕け散っていく。
乱気流が吹き荒れる崩落の空の中で、ジーンの周囲だけが、まるで完璧に計算された「絶対安全のステージ」のように安定していた。
(……すごい。アタシたちの翼でも太刀打ちできない暴風を……ただの『筋肉』と『力』で、完全にねじ伏せてる……!)
鳥人であるクロエは、空を統べるのは風を読む者だけだと信じていた。
だが、この男は違う。風を読むのではない。自らの肉体で風を「作り出し」、空という空間そのものを物理的に支配しているのだ。
「……対象の痙攣を確認。乱気流による飛翔筋の過緊張か」
ジーンの冷静な声が響く。
彼は空中で上昇を続けながら、クロエの背中――肩甲骨と翼の付け根(烏口骨)のあたりに、分厚い手袋を滑り込ませた。
「ひゃっ……!? ちょ、そこは……っ!」
鳥人にとって、翼の付け根は最も神経が集中する絶対的な急所。
だが、ジーンの指先は、ガチガチに強張っていた彼女の筋肉の隙間にミリ単位の正確さで食い込み、物理的にロックを解除していく。
「ああっ……! んんっ、あぁぁっ……!」
疲労物質(乳酸)が散らし出され、強風で冷え切っていた骨の髄に、爆発的な熱が駆け巡る。激痛が反転し、脳髄が溶けるような甘い快感がクロエの全身を貫いた。
彼女の純白の翼が、快感にビクンビクンと痙攣し、男の分厚いコートを包み込むように閉じていく。
(……空の上が、こんなに温かいなんて。アタシの翼よりも、この人の背中の方が……ずっと、広くて、安心できる……っ)
「……筋緊張の解除、完了。大気の安定層まで残り三百メートル。そのまま俺の背中にしがみついていろ」
ジーンの擦り切れた革手袋から漂う、安酒と汗と鉄錆の匂い。
空を飛ぶことへの絶対的なプライドを持っていた鳥人の少女は、自分を抱え込んで離さない「翼なき男」の圧倒的な『雄』の力と体温に、顔を真っ赤にして完全に屈服していた。
ポロポロと、恐怖と安堵、そして初恋の熱が入り混じった涙が風に舞う。
クロエは、もう二度とこの男から離れないと誓うように、ジーンの広い背中に頬を擦り寄せた。
だが。
完全に『メス』の顔になった鳥人の激しい独占欲を背に受けながらも。
当のジーンの脳内バグは、ただ大真面目に「頂上までの最短ルートの座標計算」を行っているだけだった。




