第26話:真空の槍と、乳酸の地獄
第26話:真空の槍と、乳酸の地獄
水の都アクアリア。硬化した運河の水面の上。
巨大な水棲魔獣が、獲物を奪われた怒りに咆哮を上げ、その大口の奥で凄まじい水圧を圧縮し始めた。
数百トンの水を一点に収束させた、高圧洗浄機のブレス。まともに食らえば、鋼鉄の鎧ごと肉体が真っ二つに両断される。
「……ルート上の障害物が残っているな」
ジーンは、ビアンカを片腕で抱きかかえたまま、もう片方の手で彼女の『水晶鋼の槍』を無造作に構えた。
「ちょ、ちょっと待って! アタシの槍を水魔に向かって投げる気!? 濡らしたら塩分で腐食するって言ったでしょ!」
ビアンカがジーンの腕の中で悲鳴を上げる。
だが、ジーンの脳内ではすでに、極めてロジカルな『荷物の保護』と『障害物の排除』を両立させる演算が完了していた。
『スロット2:【撥水】――対象:積載物(水晶鋼の槍)の表面全域』
『実行条件:分子間反発の出力を最大化し、接触するあらゆる流体を強制的に弾き飛ばす』
カチリ、と。脳の奥で物理的なスイッチが入る。
魔獣の口から、音速を超えるウォーターカッターが一直線に放たれた。
「フゥゥゥ……ッ!」
ジーンの呼吸が鋭く吐き出される。
硬化した水面にめり込んだブーツを支点とし、強靭な大臀筋と広背筋が凄まじい密度で収縮する。骨盤の回転が脊椎を伝い、大胸筋から右腕へとロスなく伝達される完璧な運動連鎖。
一切の魔法を使わない、純度百パーセントの肉体の躍動によって、水晶鋼の槍が魔獣のブレスの真正面へと撃ち出された。
ズパァァァァァァッ!!
直後、あり得ない物理現象が起きた。
槍がウォーターカッターに激突した瞬間、極限まで高められた【撥水】のコーティングが、数百トンの水圧を強制的に左右へと『弾き裂いた』のだ。
槍の周囲には一滴の水も触れない「完全な真空のトンネル」が形成される。
ドゴォォォォンッ!!
真空のトンネルを突き抜けた槍は、魔獣の眉間をいとも容易く粉砕し、脳髄をぶち抜いた。
巨大な魔獣の体が痙攣し、大量の血飛沫を上げながら運河の底へと沈んでいく。
「……対象の完全沈黙を確認」
ジーンは跳躍し、空中で回転しながら戻ってきた槍を革手袋でガシリと掴み取った。
「……ほら。一滴も濡らしていない。積載物のコンディションは正常だ」
ジーンは無表情のまま、全く濡れていない水晶鋼の槍をビアンカの胸元に押し付けた。
ビアンカは、瞬きすら忘れてその槍と、男の気怠げな三白眼を交互に見つめていた。魔法の光など一切ない、ただの筋肉と物理法則のハッキング。
誇り高き水上騎士の心臓が、恐怖とは違う理由で、ドクンと大きく跳ねた。
◆
同じ頃。
アクアリアの華やかな運河から遠く離れた、地下の汚水路。
陽の光も届かないドブ川を、巨大な底引き網用の奴隷ガレー船が進んでいた。
「オラァ! 手を休めるなクズ共! 漕げ、漕がないと飯は抜きだ!」
鞭の音が響く中、重い木製のオールを必死に漕いでいる三人の男女がいた。
ジーンを追放した、勇者アーサー、大魔導士エレナ、重戦士ガウェインである。
彼らは闘技国家で悪徳商人に騙された後、奴隷商人に売り飛ばされ、この水の都で「動力源」として文字通り使い潰されていた。
「はぁっ、はぁっ……! 腕が、痛ぇ……ッ! なんで勇者の俺様が、こんなドブ川で……ッ!」
アーサーの両手は無数の水ぶくれが破れ、血と膿がオールに滲みついている。
上腕二頭筋と広背筋には極限まで乳酸が溜まり、筋肉の繊維がギリギリと断裂の悲鳴を上げている。かつてなら、どれだけ疲労しても、キャンプに戻ればジーンが完璧なマッサージと重心調整で、翌朝には筋肉を新品同様に回復させてくれていた。
「痛いよぉ……っ! 足が、腰が砕けそう……ジーン、どこなの、ジーン……っ!」
エレナはボロ布のような服を纏い、自身の体重すら支えきれずに泣き叫んでいる。ガウェインも虚ろな目で、ただ機械のようにオールを引き続けていた。
疲労という名の物理的な毒(乳酸)が、彼らの肉体と精神を細胞レベルから確実に破壊していく。
『……おい、聞いたか? さっき旧市街の水路で、シー・サーペントが出たらしいぞ』
『マジかよ! 討伐隊でも数日かかるだろ、あんなバケモノ』
『それがよ、たまたま居合わせた「巨大な荷物袋を背負った男」が、水の上を歩いて一撃でぶっ殺したらしい。水上騎士の小隊長様をお姫様抱っこしながらだぜ!』
見張りの男たちの雑談が、ガレー船の底に響き渡った。
「……え?」
アーサーの動きが、ピタリと止まった。
巨大な荷物袋。水の上を歩く。あり得ない物理現象。
その特徴に該当する人間を、彼は世界で一人しか知らない。
「あ、あいつ……あんな可愛い女性を抱きながら、地上で……っ。俺たちは、こんなドブの中で、腕を腐らせて……ッ!!」
血まみれのオールを握りしめ、アーサーはどす黒い汚水に向けて、絶望と後悔の混ざった慟哭を響かせた。
彼らの肉体に蓄積した乳酸を取り除いてくれる不器用な職人は、もうどこにもいないのだ。
◆
アクアリアの乾いた石畳の船着き場。
ジーンはビアンカを小舟の残骸から降ろし、大真面目な顔で彼女の足元を見つめていた。
(……下腿三頭筋の異常な緊張。水没の恐怖による過呼吸と、不安定な足場での交感神経の過剰興奮が原因か。筋肉が硬直し、自立歩行が不可能な状態だ)
「……痛っ、あ、足が……つって……っ」
ビアンカは地面に座り込み、自身のふくらはぎを押さえて顔を歪めた。
彼女の脚は、極度のストレスにより乳酸が急激に蓄積し、石のように硬く痙攣を起こしていたのだ。
「……サスペンションの異常硬直。これ以上の歩行はアキレス腱の断裂を招く」
ジーンは無表情のまま片膝をつき、彼女の青い騎士のブーツの留め具を、躊躇いなく外し始めた。
「ちょっ、な、何する気!? 騎士の装甲を勝手に……ひゃんっ!?」
ブーツが脱がされ、白く滑らかな素足が露わになる。
ジーンの分厚く、擦り切れた革手袋が、彼女の痙攣するふくらはぎをガシリと掴んだ。
「……痛みが走るが、舌を噛むなよ。物理的に乳酸を粉砕する」
ジーンの大拇指が、ガチガチに固まった筋筋膜の隙間に、ミリ単位の正確さで食い込んでいく。
彼の手のひらから伝わる、安酒と汗と、強烈な鉄錆の匂い。
「ああっ……! 痛っ、そこ、ダメ……っ、あぁぁんっ!」
凝り固まった筋肉の繊維が、職人の指先によってゴリゴリと物理的に解きほぐされていく。
激痛の直後、堰き止められていた血流が一気に解放され、足先まで爆発的な熱が駆け巡る。痛みが強烈な快感へと裏返り、ビアンカの脳髄を白く染め上げた。
(……なんだ、これ。足の痛みが消えてく……それより、この男の匂いが、頭の奥まで……っ)
誇り高き水上騎士の心臓が、完全に限界を突破した。
彼女は、顔を耳の先まで真っ赤に染め、ジーンの泥だらけの袖をギュッと力強く握りしめた。
ポロポロと、彼女の大きな瞳から、緊張の糸が切れた安堵の涙がこぼれ落ちる。
「……んぐっ、はぁっ……。お願い、やめないで……。もっと、アタシの足を……あんたの手で……っ」
完全に『メス』の顔になった騎士の懇願。
だが、不器用なポーターの三白眼には、彼女の涙も火照った顔も一切映っていない。
(……筋緊張の解除、完了。歩行機能は正常値に復旧した。これ以上の接触は、ただのセクハラ(コンプライアンス違反)に該当するな)
ジーンはパッと手を離すと、立ち上がって手袋の汚れを払った。
「……メンテナンス終了だ。残りの報酬はギルド口座へ振り込んでおいてくれ」
彼は無慈悲に踵を返し、涙目で彼を見上げるビアンカを置き去りにして、石畳の街並みへと姿を消していった。
◆
数日後。
自由交易都市クロスロード。派遣型ギルド『銀の天秤』。
「アタシとアイツの愛の工房よ! 邪魔する奴はドリルで挽肉にするわ!」
「この土地は私のものよ! 貧民どもは立ち去りなさい!」
「ジーン様は私の……!」
地下からはオードリーのドリル音が響き、一階ではヴィクトリアの札束と、ソフィア、エララ、セレス、ライラの魔法と物理が飛び交う、まさに地獄の坩堝。
受付嬢のマリーは、すでに現実逃避のために白目を剥いて壁を向いていた。
その時。
ドォォォォォォンッ!!!!
ギルドの正面の石畳が、突如として大爆発を起こした。
飛び散る瓦礫と共に、街の地下水脈から大量の『水』が鉄砲水となってギルド内へ雪れ込んでくる。
「「「「「な、何よこれ!?」」」」」
濁流によってヴィクトリアの金塊が流され、ヒロインたちが水浸しになる中。
ギルドの中に新しくできた『水路』を通って、一隻の豪奢なゴンドラが優雅に滑り込んできた。
「……ふん。やっぱりこの街の水路は不完全ね。これじゃあ、アタシの専属ポーターが歩きにくくて仕方ないわ」
ゴンドラの舳先に立ち、青いポニーテールを揺らすのは、水上騎士ビアンカ。
「アタシは水上騎士として、このギルドを『水上重要拠点』に指定したわ。今日からアタシが、このギルドの運河を二十四時間監視してあげる!」
職権濫用による、ギルドへの『強引な水路の引き込み(不法開拓)』。
六人目の美女の乱入により、ギルドの修羅場は、ついに地形図そのものを書き換える次元へと突入してしまった。




