第25話:表面張力の硬化と、水没する騎士
第25話:表面張力の硬化と、水没する騎士
水の都アクアリア。
無数の運河が街中に張り巡らされ、移動手段のすべてが小舟に依存するこの美しい都市で、ジーンは気怠げに運河の水面を見つめていた。
「おい、新入りのポーター! アタシの槍と鎧、絶対に水に濡らすんじゃないわよ! 水晶鋼は塩分に弱いの!」
小舟の上で、ジーンを顎で使っているのは、青い髪をポニーテールにした少女――水上騎士団の若き小隊長ビアンカである。
今回の指名依頼の雇い主であり、誇り高く、そして極端に神経質な性格をしていた。
「……現在、湿度七十八パーセント。大気中の水分による腐食(酸化)を防ぐため、【撥水】のコーティングを施している。問題ない」
ジーンは小舟の最後尾に座り、彼女の水晶鋼の槍と予備の鎧を抱えながら、極めて事務的に答えた。
だが、ビアンカは不満げに鼻を鳴らす。
「ふん、口だけは達者ね。アタシは水上騎士団の誇りにかけて、この街の運河を守る義務があるの! あんたみたいな頼りない男に、この神聖な任務のサポートができるとは思えないけど」
ビアンカがジーンを小馬鹿にするように言い放った、その時だった。
ゴポォォォォッ……!!
突如、運河の水面が不自然に盛り上がり、巨大な水柱が間欠泉のように噴き上がった。
水柱の中から姿を現したのは、運河の底に潜んでいた巨大な水棲魔獣だった。
「なっ……!? 旧市街の水路に、こんな大型の魔獣が!?」
ビアンカは顔色を変え、腰の剣を抜こうとした。
だが、魔獣の動きの方が早い。巨大な水流が、高圧洗浄機のような凄まじい水圧となって、ビアンカの小舟を直撃した。
ドバァァァァァッ!!
「きゃぁぁッ!?」
小舟が木の葉のように粉砕され、ビアンカの体が空中へと投げ出される。
彼女は水上騎士団の小隊長だ。水に落ちたところで、すぐに体勢を立て直し、泳いで迎撃する訓練は積んでいる。
しかし、落下した運河の水面を見た瞬間、彼女の顔は絶望に凍りついた。
(……嘘、魔獣の『粘液』で、水面がドロドロに……っ!)
魔獣が吐き出した特殊な粘液が水面に広がり、水の粘度をコールタールのように変質させていた。
水中に落下すれば、二度と浮かび上がることはできない。重い鎧を着たまま、息もできずにドロドロの泥水の中で窒息死する。
「あ、あああ……っ!」
ビアンカは空中で必死にもがいたが、足場のない空中で姿勢を制御することは不可能だった。
水面が迫る。
誇り高き水上騎士の心臓が、泥水に沈む恐怖に完全に支配された。
「……雇い主。一つ、忠告しておく」
その絶望の底で。
気怠げで、感情の全くこもっていない声が、どういうわけか彼女の『真下』から聞こえてきた。
「え……?」
ビアンカが目を見開くと、そこには、信じられない光景が広がっていた。
ジーンが、ドロドロに濁った運河の『水面の上』に、まるで硬い地面に立っているかのように、両足でしっかりと直立していたのだ。
『スロット1:【撥水】――対象:足裏と水面が接触する全領域の表面張力』
『実行条件:分子間力の強制結合による、水面の一時的硬化(コンクリート化)』
ジーンの脳内で、物理的なスイッチが切り替わっている。
水の上を歩く魔法ではない。
水分子の表面張力を【撥水】のベクトル反転を用いて極限まで高め、足元の水だけを「物理的に割れないチタンの板」のように硬化させる、狂気的なまでのシステムハック。
「……水辺での作業は、足元の確保が最優先だ。重心を崩せば、機材(荷物)が損傷する」
ジーンは無表情のまま、空中のビアンカに向かって両腕を伸ばした。
そして、落下してくる彼女の体を、分厚い革手袋でガシリと受け止める。
「ひゃっ……!?」
ビアンカの体に、強烈な着地のGがかかる。
だが、ジーンは彼女を抱え込んだまま、分厚い大腿四頭筋と背筋のサスペンションを限界まで稼働させ、数百キロの落下エネルギーを己の肉体だけで完全に吸収した。
ザシュゥゥゥンッ……!!
ジーンのブーツが、硬化した水面を削りながら数メートル滑る。
だが、彼はビアンカを抱えたまま、一歩も水の中に沈むことはなかった。
濁った泥水の真ん中で、彼はただの「硬い床」の上に立っているように、完璧なバランスを維持していた。
「な、なんで……? あんた、なんで水の上に……っ」
ビアンカは、ジーンの分厚い胸板に抱かれたまま、恐怖と混乱で声を震わせた。
彼女を抱きとめている腕は、鋼のワイヤーのように固く、そして絶対に自分を泥水に落とさないという、異常なほどの『安定感』があった。
「……着水の回避、成功した。だが」
ジーンは、ビアンカの顔など一切見ず、気怠げな三白眼で運河の奥を睨みつけた。
「……まだ、ルート上の障害物が残っているな」
魔獣が、獲物を奪われたことに激怒し、再び巨大な水流を口に圧縮し始めていた。
ジーンはビアンカを片腕で抱きかかえたまま、もう片方の手で、彼女から預かっていた『水晶鋼の槍』を無造作に構えた。




