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第24話:頸椎の矯正と、焼き付くエンジン

第24話:頸椎の矯正と、焼き付くエンジン


 機巧都市マキナの地下工房。

 ボイラーの爆発を免れた薄暗い空間で、オードリーはジーンの腕の中で意識を手放しかけていた。


(……息が、吸えない……。胸が、重い……っ)


 彼女の小柄な肉体は、長年にわたる過酷な労働環境――重い工具袋の運搬、前屈みでの精密作業、そして劣悪な空気環境――によって、内部フレーム(骨格)が限界を迎えていた。

 頸椎(首の骨)はストレートネック状態を超えて逆湾曲し、胸椎が前方に丸まることで肋骨が内臓を圧迫している。 

 結果、横隔膜の可動域が極端に制限され、肺が本来の三割程度の酸素しか取り込めない『構造的な酸欠状態』に陥っていたのだ。


「……バイタル低下。呼吸器系への物理的干渉を確認。これより、フレームの矯正作業メンテナンスに入る」


 ジーンは平坦な声で告げると、オードリーを油にまみれた作業台の上に静かに横たわらせた。

 彼にとって、目の前の少女は「助けを求める可憐なヒロイン」ではない。ただ「吸気ラインが詰まり、フレームが歪んだデリケートな精密機械」である。


 ジーンの擦り切れた革手袋が、彼女の細い首筋に触れた。


「ひゃっ……!?」


 オードリーの体がビクッと跳ねる。

 だが、ジーンは構わず、彼女の後頭部の付け根――第一頸椎アトラスの周囲に、分厚い指を滑り込ませた。

 そして、【圧縮】のスキルを極小出力で発動させる。

 ガチガチに固まっていた僧帽筋と肩甲挙筋の『張力テンション』を、物理的にキャンセルし、一時的に筋肉をドロドロのゼリー状へと脱力させたのだ。


「……っ、あ……」


 オードリーの口から、無防備な吐息が漏れる。

 筋肉の抵抗を排除した上で、ジーンは自らの指先をマイクロジャッキのように使い、彼女のズレた頸椎と胸椎を、本来あるべき『正しい座標』へとミリ単位で誘導していく。


 コキッ……。

 ポキリ……。


 小さな、だが確かな骨の整復音が、工房内に響く。

 それは魔法による強引な治癒ではない。人体の関節構造と物理法則を完全に熟知した者だけが成し得る、神業のような『職人の手技メンテナンス』だった。


「……あ、あぁっ……!」


 圧迫されていた神経が解放され、閉じていた胸郭がパキリと開く。

 その瞬間、オードリーの細い気管を通り、大量の新鮮な空気が肺の最深部まで一気に流れ込んだ。


「はぁっ、はぁっ……! 息が、息が……吸える……っ!」


 彼女は、まるで深海から水面に顔を出したかのように、大きく深く呼吸を繰り返した。

 長年彼女を苦しめていた頭痛や背中の軋み、そして慢性的な倦怠感が、嘘のように消え去っている。血中酸素濃度が急上昇し、チアノーゼを起こしていた彼女の唇と頬に、健康的な赤みが急速に戻っていく。


「……内部フレームの再配置、完了。吸気ラインの異常なし」


 ジーンは、作業台から離れると、パンパンと手袋の汚れを払い、自分の仕事の成果を事務的に確認した。


「……あんた……一体……」


 オードリーは、潤んだ瞳でジーンを見上げた。

 機械の悲鳴を聞き分け、どんな複雑な絡繰からくりも直してきた天才技師である彼女でさえ、自分の『体』という一番身近な機械のエラーは直せなかったのだ。

 それを、この無愛想な男は、魔法という小細工も使わず、ただの指先一つで完璧にチューニングしてみせた。


 ドクン、ドクン。

 オードリーの胸の奥で、今まで聞いたことのないような、激しく、熱い音が鳴り始めた。


(……なんだ、これ。私の心臓エンジンが、焼き付くみたいに、熱い……っ)


 油と煤にまみれた彼女の頬が、呼吸の回復とは違う理由で、林檎のように真っ赤に染まっていく。

 不器用で、愛想がなくて、だけど世界中の誰よりも「機械モノ」を大切に扱う、本物の職人。

 オードリーの天才的な頭脳は、たった一回のメンテナンスで、この男への完全な依存と初恋の熱を、システムの中枢に深く刻み込まれてしまった。


「……納品書のサインを頼む。俺は次の現場に行かなければならない」


「えっ? 次って……あんた、行っちゃうの!?」


「スケジュールが詰まっている」


 ジーンは羊皮紙を突き出し、オードリーが震える手でサインを書き終えるや否や、巨大な荷物袋を背負って踵を返した。

 彼の背中には、別れを惜しむ感傷など一ミクロンもない。


「ちょっと待ちなさいよ! アタシはまだ、あんたのその腕の……技術の秘密を……ッ!」


「……姿勢の悪化は、万病の元だ。作業台の高さを五センチ上げろ」


 それだけを言い残し、ジーンは地下工房の暗がりへと消えていった。


「…………あーあ」


 残されたオードリーは、自分の油まみれの手を見つめ、大きくため息をついた。

 直されたばかりの胸郭が、彼の匂いを求めて小さく上下している。


「……そんな無責任に、アタシの心臓メインエンジンに火をつけといて……逃げ切れると思わないことね」


 天才技師の瞳に、ギラギラとした執着と、マッドサイエンティスト特有のヤバい光が宿った。


 ◆


 数日後。

 大商業帝国の女王ヴィクトリアの買収によって、物理的にも資本的にも戦場と化していたギルド『銀の天秤』。


「退きなさい、メス猫ども! この土地は私のものよ!」


「ジーン様は私のものですわ! 神の裁きを受けなさい!」


「うるさいわね! あいつの右足のメンテナンスは私が……!」


「アタシの戦斧ハルバードのサビになりな!」


 四人の美女たち(ソフィア、エララ、セレス、ライラ)と女王ヴィクトリアが、ギルドの一階で血みどろの抗争を繰り広げている中。


 ガガガガガッ……!!


 チュイィィィィン!!


 突如、ギルドの床下から、凄まじい削岩音と機械の駆動音が鳴り響いた。


「な、何よ今の音!?」


「地震……!?」


 ヒロインたちが動きを止めた瞬間。

 ギルドの床板がドカンと吹き飛び、その大穴から、巨大な蒸気式ドリルに乗った油まみれの小柄な少女――オードリーが姿を現した。


「……ふぅ。座標計算は完璧ね。ここが、あの男の『拠点』ってわけか」


 オードリーはゴーグルを額に押し上げ、呆然とする五人の美女たちを見渡してニヤリと笑った。


「あんたたち、上が騒がしいわよ。……アタシは今日から、このギルドの地下をぶち抜いて『アタシとアイツの愛の専用工房』を作ることにしたから。文句ある?」


「「「「「……はぁ!?」」」」」


 マリーはすでに気絶しているため、ツッコミを入れる者は誰もいない。

 ヴィクトリアの「資本による買収」に対抗し、オードリーの「物理的な地下開拓(不法占拠)」という新たな陣取り合戦が勃発。

 ジーンの極限奉仕によって狂わされたヒロインたちの修羅場は、ついにギルドの地下空間にまで侵食し始めていた。


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