第23話:暴走する蒸気と、技師の不良姿勢
第23話:暴走する蒸気と、技師の不良姿勢
自由交易都市のギルドが、五人の美女たちのマウント合戦によって物理的に崩壊しかけていた頃。
当のジーン本人は、遠く離れた機巧都市マキナの地下深くで、鼓膜を破るような金属の悲鳴と対峙していた。
「クソッ……! 蒸気圧、規定値の百五十パーセント突破! このままじゃ主機が爆発するッ!」
煤と油にまみれたツナギを着た小柄な少女――天才技師オードリーが、真っ赤に焼けた巨大な圧力バルブに大型レンチを引っ掛け、全体重をかけていた。
だが、熱膨張で固着したバルブはピクリとも動かない。地下工房には高圧の蒸気と不完全燃焼による一酸化炭素が充満し、彼女の細い気管支を容赦なく焼き焦がしている。
「ゲホッ、ガハッ……! 動け、動けよぉっ……!」
そこに、巨大な交換用ギア(重量約三百キロ)を背負ったジーンが、足音一つ立てずに現れた。
「……依頼された交換用パーツの搬入だ。納品書にサインを」
鼓膜が破れそうな轟音の満ちる空間で、ジーンの極めて平坦で気怠げな声が響いた。
オードリーは煤だらけの顔を弾かれたように振り向ける。
「はぁ!? あんた馬鹿じゃないの!? 今すぐ逃げな、ここごと吹き飛ぶぞ!」
オードリーの悲痛な叫び。
しかし、ジーンの三白眼は、暴走する巨大なボイラーの圧力計ではなく、オードリーの肉体が発する『致命的なエラー』を解剖医のように冷徹にスキャンしていた。
(……血中酸素濃度の異常低下。口唇と指先に顕著なチアノーゼ。さらに、長時間の重量物運搬と不良姿勢による頸椎(C5~C7)および胸椎の著しい歪みが、横隔膜の可動域を強制的にロックしている)
彼女の体は、ボイラーが爆発するよりも先に、呼吸不全と神経圧迫によるブラックアウト(気絶)の限界点を迎えようとしていた。手元のレンチを握る握力はすでに失われ、痙攣すら始まっている。
「……このまま施設が吹き飛べば、納品が完了しない。スケジュールの遅延は俺の評価に関わる」
ジーンは三百キロのギアを無造作に床に下ろすと、真っ赤に焼けたボイラーの正面へと歩み寄った。
「な、何する気!? その熱気、触れただけで皮膚が……ッ!」
オードリーの制止を無視し、ジーンの脳内で物理的なスイッチが切り替わる。
『スロット1:【撥水】――対象:自身の半径二メートル以内に侵入する高熱蒸気および有毒ガスの完全弾き返し』
『スロット2:【圧縮】――対象:主機内部で膨張する蒸気体積の強制縮小』
『スロット3:空き』
ジーンの擦り切れた革手袋が、三百度を超える高熱のバルブを直接、無造作に鷲掴みにした。
「えっ……!?」
オードリーは自分の目を疑った。
魔法による氷結や防壁の詠唱など一切ない。ただの革手袋で高熱の鉄に触れたのに、彼の皮膚からは煙一つ上がっていないのだ。【撥水】の極限応用により、熱伝導のベクトルそのものが彼の皮膚表面で完全にシャットアウトされていた。
「……フゥゥゥ……ッ」
ジーンの足幅が開き、大理石の床にブーツがめり込む。
彼の分厚い広背筋と大円筋が凄まじい密度で収縮する。それは単なる腕力ではない。大臀筋から背骨を通し、肩甲骨の引き寄せによる絶対的な「トルク(回転力)」を指先へとロスなく伝達させる、完璧な物理法則のハックだった。
ギギギギギッ……!!
熱膨張で完全に焼き付いていたはずの巨大バルブが、ジーンの圧倒的な筋肉の連動によって、いとも容易く回転し、閉鎖されていく。
同時に【圧縮】のスキルがボイラー内部の蒸気体積を強制的に抑え込み、破裂寸前だった圧力計の針が、嘘のように安全圏へと急降下していった。
シューゥゥゥ……と、耳障りな蒸気の噴出音が止む。
「……施設の爆発リスク、排除完了。安全は確保された」
ジーンは、何事もなかったかのように革手袋の油汚れを払い、振り返った。
その瞬間。極度の緊張と酸欠から解放されたオードリーの膝がガクンと折れ、油まみれの床へと倒れ込もうとした。
「あっ……」
視界が真っ暗に染まる。
だが、彼女の体が冷たい鉄の床に叩きつけられることはなかった。
ジーンが無音の歩法で滑り込み、彼女の小柄で油だらけの体を、片腕でしっかりと受け止めたのだ。
「ケホッ……はぁっ……あ、ありが……とう……」
オードリーは朦朧とする意識の中、自分を包み込む男の、安酒と汗と鉄錆の匂いに、強烈な安堵の息を漏らした。
今まで、機械の悲鳴ばかり聞いて生きてきた彼女の耳に、この分厚い胸板から鳴る、規則正しく力強い男の心音が、ひどく心地よく響く。
だが、ジーンの気怠げな目は、彼女の潤んだ瞳や、ツナギ越しに伝わる華奢な体温など、一ミクロンも意識していなかった。
(……次は、雇い主の内部フレーム(脊椎)の歪み矯正だ。酸素の供給ラインを復旧させなければ、機材が完全に停止する)
彼の目は、純粋に「次にメンテナンスすべき壊れた機材」を見つめる、冷徹な一流職人の目だった。
不器用なエージェントによる、油と汗にまみれた『特急メンテナンス(極上の脊椎矯正スパ)』が、今まさに始まろうとしていた。




