第22話:時給の美学と、買収される拠点
第22話:時給の美学と、買収される拠点
大商業帝国ゴールド・バザリクのオアシス。
涼やかな風が吹き抜ける泉のほとりに、ジーンはヴィクトリアを極めて慎重に、かつ一滴の汗も流さずに下ろした。
【免震】と【撥水】による完璧なVIP輸送。ヴィクトリアの足の痛みは完全に引き、彼女の肌は砂漠を越えてきたとは思えないほど潤いを保っている。
「……現在時刻、十六時十分。指定ポイントへの到着を確認。これにて、本日の『護衛兼、運搬業務』はすべて終了だ」
ジーンは、大真面目な顔でヴィクトリアに向かって右手を差し出した。
「……一時間分の追加賃金、銀貨三枚だ。確認を」
ヴィクトリアは、呆然としたまま、震える手で懐から銀貨を三枚取り出し、彼の分厚い革手袋の上に乗せた。
純度九九パーセントの金貨の山には見向きもしなかった男が、薄汚れた銀貨を受け取った瞬間、微かに「安堵」のような息を吐く。
「……取引成立だ。では、俺は次の依頼へ向かう」
「ま、待ちなさい……ッ!」
踵を返そうとしたジーンの泥だらけのコートを、ヴィクトリアが慌てて力強く掴んだ。
砂漠の盗賊から命を救い、彼女の資本主義的価値観を根底から粉砕したこの男を、ここで手放すわけにはいかない。金で買えない絶対的な『力』と『安心感』。それを手放せば、彼女は二度と夜も眠れなくなるような気がした。
「……私、あなたを誤解していたわ。あなたのその『力』と『誠実さ』は、銀貨三枚なんて安い価値じゃない。……私の専属になりなさい。帝国の富の半分を、あなたに預けてもいいわ」
それは、世界を支配する女王による、事実上の『共同統治のプロポーズ』だった。
彼女は、今まで誰にも見せたことのない、上目遣いの熱っぽい視線で彼を見つめた。
金で男を支配してきた女王が、初めて「金ではなく、自分自身という女」を対価にして、一人の男に身を委ねようとしている。
だが。
ジーンの気怠げな三白眼は、帝国の富の半分にも、女王の艶やかな熱視線にも、1ミクロンも靡かなかった。
「……悪いが、それはできない」
「え……?」
「俺は『時間単位で労働力を提供するエージェント』だ。国家規模の長期契約は、リスク管理とスケジュール調整の観点から、俺のプロトコルに合致しない」
ジーンは、すがりつくヴィクトリアの美しい手を、極めて事務的に、しかし確固たる力で引き剥がした。
「それに、俺の管理する『荷物』は一つじゃない。特定のポイントに滞留すれば、全体の物流網が死ぬ」
ジーンは、背負っていた巨大な荷物袋を背負い直した。
泥だらけのブーツ。安酒と鉄錆の匂い。
彼は、莫大な富を足元に積まれても、一滴の汗と引き換えに得た「銀貨三枚」だけを握りしめ、次の依頼先へと歩き出していく。
「……じゃあな。新しい靴を買うときは、サイズだけでなく『重心のバランス』も考慮しろ。また足が壊れるぞ」
それだけを言い残し、ジーンはオアシスの木漏れ日の中へと消えていった。
「…………あ、ああ」
残されたヴィクトリアは、彼が消えた方向を見つめ、熱く火照ったため息を漏らした。
金に靡かない。権力に屈しない。ただ己の労働の美学だけで生きる男。
彼女の、何でも思い通りになってきた退屈な人生に、絶対に手に入らない『極上の劇薬』が打ち込まれてしまった。
「……いいわ。あなたが私に『所有』されないと言うのなら……私の方から、あなたを『買収』しに行くだけよ」
砂漠の女王の瞳に、ギラギラとした資本主義の怪物の炎が宿った。
◆
数日後。自由交易都市クロスロード。
ジーンの所属する派遣型ギルド『銀の天秤』は、すでに崩壊の危機に瀕していた。
「ジーン様は私のものです! 誰も触れさせません!」
「あんたみたいな貧乳聖女に、あいつの極上マッサージの価値が分かるもんですか!」
「うるさいわね! あいつの専属はこのアタシよ! 右足のメンテナンスは絶対譲らないわ!」
「おいおい、なんだこのメスどもの群れは。アタシが壁をぶち抜いてやったんだ、アタシが一番乗りだろ!」
聖女ソフィア、大魔導士エララ、天才剣士セレス、そして獣姫ライラ。
四人の美女たちが、魔法と剣と物理を交錯させながら、連日連夜の血みどろのマウント合戦を繰り広げている。
壁は吹き飛び、床は大穴が開き、ギルドの中はもはや戦場そのものだった。
「ひぃぃぃっ……! もうダメ、もうギルドが粉々よぉぉ……っ!」
受付嬢のマリーは、カウンターの裏に隠れ、涙目で胃薬をかじっていた。
その時。
ズズズズズズッ……!!
ギルドの外から、地鳴りのような重低音が響き、四人の美女たちの動きがピタッと止まった。
吹き飛んだ壁の向こうに現れたのは、金箔で装飾された巨大な『帝国軍の装甲馬車』の車列。
その中央の馬車から、数十人の武装護衛を引き連れ、砂漠の女王ヴィクトリアが優雅に降り立った。
「……なんだ、随分と埃っぽい場所ね。まあいいわ」
ヴィクトリアは、ポカンとする四人の美女たちを一瞥すると、金糸の扇で口元を隠し、高らかに宣言した。
「聞け、愚民ども! 本日この時刻をもって、このギルド『銀の天秤』、およびこの区画の土地一帯を、我が大商業帝国が買収したわ!」
「「「「……はぁ!?」」」」
四人の声が、完璧にハモった。
「ここにいる『時給制のポーター』は、ギルドの備品ごと、私、女王ヴィクトリアの『私有財産』となる! さあ、あなたたちのような貧乏人は、さっさと立ち退きなさい!」
ドンッ! と。
ヴィクトリアの部下たちが、数億円は下らないであろう金塊の山を、ギルドの床に乱暴に叩きつけた。
「……ちょっと、金持ちだからって調子に乗らないでよ! ジーンはお金なんかで買えないわよ!」
「そうよ! ジーン様は、私のために『無償の愛』を……!」
「あら? 金で買えないものがあるなんて、貧乏人の負け惜しみね。……護衛兵! このメス猫どもをつまみ出しなさい!」
札束の力で物理的にマウントを取りにきた五人目の美女の登場により、ギルドの修羅場は、ついに国家間の戦争レベルへと激化してしまった。
マリーはついに白目を剥き、静かに泡を吹いて気絶した。




