第20話:絶対の時給と、買収不能の質量
第20話:絶対の時給と、買収不能の質量
大商業帝国ゴールド・バザリク。
大陸の南部に広がる灼熱の砂漠を切り拓き、黄金と香辛料で世界の経済を支配する巨大国家。この国において、「金」は絶対的な法律であり、命の価値すらも天秤の上の硬貨で決まる。
「……ご苦労だったわね。荷運びの底辺労働者にしては、悪くない働きだったわ。これはチップよ、取っておきなさい」
王宮の執務室。
豪奢な絹のドレスを纏い、金糸の扇で口元を隠して優雅に笑うのは、この商業帝国を束ねる『砂漠の女王』ヴィクトリア。
彼女は、王室書庫の数万冊に及ぶ古い魔導書を、一滴の汗も流さず完璧にパッキングし終えたジーンの足元へ、無造作に純金の貨幣が入った袋を投げ落とした。
一般の肉体労働者が、一生遊んで暮らせるほどの額だ。彼女にとって、他者を金で屈服させ、その這いつくばる姿を見下ろすことこそが至高の娯楽だった。
だが。
ジーンの泥だらけのブーツは、足元に転がった金貨の山に見向きもしなかった。
彼はしゃがみ込み、床に落ちた金貨を一枚だけ拾い上げると、気怠げな三白眼でその表面を凝視した。
(……純度九九・九パーセント。比重一九・三。通常の鉄や石材に比べ、体積あたりの質量が異常に大きい。事前の重量計算に深刻なノイズを生む『厄介な積載物』だ)
ジーンの脳内バグは、帝国の富の象徴である純金に対し、「重くて運ぶのに邪魔な金属」という極めて無機質な物理的評価しか下していなかった。
「……過剰入金だ。受け取れない」
ジーンは金貨の袋をヴィクトリアの執務机に無造作に置き返した。
「は……?」
「俺の契約は『時給・銀貨三枚』だ。事前見積もりにない突発的な現金の授受は、ギルドの帳簿と税務処理にエラーを生む。回収してくれ」
ジーンは悪びれる様子もなく、ただ大真面目に「経理上の不具合」を指摘した。
強がりでも、気を引くための芝居でもない。純然たる『労働と対価のプロトコル』だ。
「……ちょっと、待ちなさい。これがいくらになるか分かっているの? あなたのような泥まみれの男が、一生かかっても稼げない金よ!?」
「金属の市場価値は俺の管轄外だ。だが、この質量を余分に持ち歩けば、俺の歩行時の重心が二ミリ狂う。業務に支障が出る」
ヴィクトリアの完璧な笑顔が、微かに引き攣った。
今まで、どれほど高潔な騎士も、清貧を謳う聖職者も、彼女の金貨の前では等しく涎を垂らして跪いてきた。
しかし、目の前の分厚い胸板を持つ男の眼には、純金の輝きよりも「自身の歩行フォームの維持」しか映っていない。
(……なによ、この男。私の『金』が、全く通じない……?)
ヴィクトリアの胸の奥で、苛立ちとも、未知の存在に対する焦燥ともつかない、奇妙な熱が燻り始めた。
◆
その直後だった。
王宮の外から、地鳴りのような轟音と、人々の悲鳴が響き渡った。
『大変です、女王陛下! 第三大倉庫の柱が老朽化で倒壊! 王国全土へ出荷予定だった数千トンの香辛料と金塊のパレットが崩れ、主要な搬出ルートを完全に塞いでおります!』
血相を変えた文官が執務室に転がり込んでくる。
ヴィクトリアの顔色が変わった。第三大倉庫は帝国の経済の心臓部だ。そこが数時間でも停止すれば、莫大な違約金が発生し、帝国の信用は地に落ちる。
「すぐに現場の労働者たちに退かさせなさい! 瓦礫を一つ退かすたびに、金貨十枚を出してやるわ!」
ヴィクトリアは現場へ急行し、崩落した倉庫の惨状を前に声を張り上げた。
だが、金貨を積まれようとも、物理の壁は無情だった。
倒壊した巨大な石柱と、その下敷きになった数千トンの積載物。生身の人間数十人が束になっても、ピクリとも動かない。
労働者たちが絶望の声を上げる中、ヴィクトリアはギリッと唇を噛んだ。
「……私の、私の黄金郷が……たかが瓦礫のせいで……っ」
金で、解決できない。
女王の絶対的な権力が、単なる「巨大な質量」という物理法則の前に、無力な悲鳴を上げていた。
「……ひどい有様だな」
熱風が吹き荒れる中。
ひどく平坦で、気怠げな男の溜息が、砂漠のノイズを切り裂いて響いた。
(……巨大質量の落下による、ルートの完全なデッドロック。放置すれば、全体の物流網が死ぬな)
世界で最も不器用なポーターは、泥だらけの革手袋の留め具を締め直し、大真面目な顔で『障害物の排除』の演算を開始していた。
『スロット1:【圧縮】――対象:前方の倒壊した石柱群の絶対質量』
『スロット2:【撥水】――対象:石柱と地面の間に生じる摩擦係数の完全排除』
『スロット3:空き』
カチリ、と。脳の奥で物理的なスイッチが入る。
「退いていろ。危ないぞ」
ジーンは、混乱する労働者たちをかき分け、数トンはあろう巨大な石柱の前に無防備に立った。
そして、両手を石柱の側面に当て、肩幅より広くスタンスをとる。
「ちょっと、何を考えているの!? 人間の力で動くわけが……!」
ヴィクトリアの制止の声を無視し、ジーンは息を深く吸い込んだ。
「フゥゥゥゥ……ッ!!」
泥まみれのブーツが、砂漠の石畳を粉砕してめり込む。
ジーンの分厚い大腿四頭筋と背筋が、岩のように隆起し、ギリギリと繊維が断裂する寸前の悲鳴を上げた。
魔法の光など一切ない。純度百パーセントの、血と汗と筋肉の躍動。
ズズズズズズズッ!!!!
あり得ない光景だった。
数千トンの瓦礫の山が、ただ一人の人間の腕力によって、地響きを立てながらズルズルと押し退けられていく。
【圧縮】で質量を極限まで減らし、【撥水】で摩擦をゼロにした石柱を、ジーンは自らの肉体という最強の重機を使って、ただひたすらに、黙々と「片付け」ていく。
吹き出す汗が、砂漠の熱気で一瞬にして蒸発する。
擦り切れた革手袋から、鉄錆と、強烈な『雄の汗』の匂いが立ち上る。
シナモンやカルダモンの香辛料の香りが舞い散る中、ジーンは呼吸を乱しながらも、寸分の無駄もない完璧な重心移動で、崩落した帝国の富を一つ一つ、正確なルートへと再配置していった。
「……」
ヴィクトリアは、その光景から目が離せなかった。
彼女の築き上げた数兆の富。帝国の威信。それらすべてを、この男は「ただの邪魔なダンボール箱」のように扱い、泥水と汗にまみれて整理している。
彼女の金では絶対に買えない、圧倒的で、残酷なまでの『労働の現実(物理)』。
(……なによ、これ。私の金が、私の権力が……こんな泥臭い汗の前に、負けるっていうの……?)
ヴィクトリアの呼吸が浅くなり、扇を持つ手がブルブルと震え出した。
それは恐怖ではない。
金で世界を支配してきた女王が、生まれて初めて「自分の金が全く通用しない、圧倒的な力を持つ絶対者」を前にして感じた、強烈な敗北感。
そして、その敗北感がもたらす、脳髄が溶けるような甘美な痺れだった。
「……ルートのクリアリング、完了。物流網の復旧を確認した」
数十分後。
ジーンは、完全に道が開かれた倉庫の真ん中で、額の汗を手の甲で拭いながら気怠げに息を吐いた。
彼の呼吸は荒く、全身の筋肉は激しい駆動により熱を持っていた。
「……おい、雇い主」
「ひゃっ、は、はい……ッ!?」
ジーンに無機質な三白眼で見下ろされ、ヴィクトリアの肩がビクンと跳ねた。
女王の威厳など、もうどこにもない。顔は耳の先まで真っ赤に染まり、彼女の瞳は、熱病に浮かされたようにジーンの泥だらけの厚い胸板に釘付けになっていた。
「現在の稼働時間、四十五分。……俺の契約は時給制だと言ったはずだ。一時間分の賃金、銀貨三枚を請求する」
帝国を救い、数兆の損失を防いでおきながら。
この男は、ただ『約束された銀貨三枚(数百円)』だけを、極めて大真面目に要求してきたのだ。
「……っ、あ、あああ……っ!」
ヴィクトリアの心臓が、限界を超えて高鳴った。
金にひれ伏さない。どれほどの富を積んでも、この分厚い胸板と、汗にまみれた強靭な腕を『所有』することはできない。
その事実が、彼女の支配欲と、隠されていたメスとしての本能を狂気的なまでに煽り立てる。
(……欲しい。金で買えないなら……私のすべてを差し出してでも、この男の首輪を……っ!)
「……銀貨三枚、ですね。ええ、ええ……すぐに、お支払いしますわ……っ」
砂漠の女王は、泥だらけのポーターの前にその場にへたり込み、熱い吐息を漏らしながら、完全な敗北と恋の熱にドロドロに溶かされていた。




