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第19話:100%の運動エネルギーと、獣の嗅覚

第19話:100%の運動エネルギーと、獣の嗅覚


 闘技場の地下、薄暗いクレバスの底。

 ジーンによる「物理的なサスペンション調整」を終え、ライラは信じられない思いで自身の左膝を見下ろしていた。

 擦り減っていた関節軟骨の間に完璧な『隙間』が生まれ、枯渇していた滑液がスムーズに循環し始めているのがわかる。


「……嘘、だろ。あんなに痛かったのに……っ」


 その時。

 クレバスの上部から、ライラを追って闘技場の魔物たちが次々と降ってきた。

 六本の腕を持つ巨大な猿の魔獣エイプ・ロードが三匹。いずれも狂暴化しており、鋭い牙から涎を垂らしながら、無防備なライラを肉塊に変えようと襲いかかってくる。


「……雇いクライアント。対象が接近中だ」


 ジーンは気怠げな三白眼で魔獣を見上げながら、一切の迎撃態勢をとることなく事務的に告げた。

 彼にとって、この戦いはすでに『管轄外』だ。自身の業務は「武器の搬入と機材の応急処置」までであり、戦闘はヒロインである彼女の役割タスクである。


「……ふっ、上等だ。試させてもらうぜ、あんたが直した『最高のアタシ』をよ!」


 ライラは、自分の身の丈ほどもある百五十キロの黒鋼の戦斧ハルバードを片手で軽々と掴み上げた。

 そして、魔獣に向かって左足で大地を強く踏み込む。


 ダンッ!!


 これまでなら、踏み込んだ瞬間に半月板が悲鳴を上げ、力が逃げていた。

 だが今は違う。

 大地を蹴った猛烈な反発力が、左足の裏から脛骨、大腿骨を抜け、ロスなく骨盤へと伝達される。完璧に調整された膝のサスペンションが、強大な運動エネルギーを一ミクロンもこぼすことなく上半身の捻りへと繋げたのだ。


「オラァァァァッ!!」


 大腿四頭筋の圧倒的な収縮と、背筋のタメ。

 そこから生み出された遠心力が、百五十キロの絶対質量を持つ戦斧の先端に集中する。魔法の光など一切ない、純度百パーセントの物理法則の暴力。

 振り抜かれた黒鋼の刃が空気を圧縮し、暴風の壁となって三匹の魔獣を真正面から迎え撃った。


 ズドバァァァァンッ!!!!


 刃が触れるよりも早く、音速を超えた戦斧の風圧だけで、強固な魔獣の肉体がトマトのように弾け飛んだ。

 血飛沫と臓物がクレバスの壁面にぶち撒けられ、断末魔の悲鳴すら上げる間もなく、三匹の巨体は完全にひき肉の塊へと変貌していた。


「……すげぇ。全くブレねぇ。自分の体が、こんなに軽く動くなんて……ッ!」


 ライラは血に濡れた戦斧を肩に担ぎ、興奮に体を震わせた。

 闘技場で無敗を誇っていた彼女でさえ、長年の負傷により本来の出力の六割程度しか出せていなかったのだ。

 今、自分を縛り付けていたエラーは完全に排除された。

 この『完璧な自分』を取り戻してくれた、不器用で、冷徹で、そして圧倒的に強い男。


「なぁ、ヒョロガリ! いや、ジーン! あんたのおかげだ、アタシは……」


 ライラが顔を真っ赤に染め、尻尾をパタパタと振りながら振り返る。

 だが。


「……現在時刻、十五時二十分。応急処置後の初期稼働テスト、正常終了を確認した。これにて、本日の業務を完了とする」


 ジーンは、すでに背を向け、クレバスの壁面を【圧縮】と【撥水】を駆使した歩法で登り始めていた。


「え……?」


「左膝の耐久値は一時的に回復しているが、オーバーワークは禁物だ。専門の治癒魔導士に掛かり、アイシングを怠るな。……残りの報酬は、ギルド口座へ振り込んでくれ」


 ジーンの言葉には、感傷も、闘技の勝利を祝う熱も、微塵も含まれていない。

 彼にとって、ライラは「コンディションを回復した機材」であり、修理が終われば速やかに次の依頼タスクへ向かうのが、エージェントとしての絶対的なプロトコルだった。


「ちょっ、待てよ! アタシはまだ、あんたに……っ!」


 ライラが慌てて追いすがろうとしたが、無駄のない重心移動で崖を登るジーンのスピードは異常だった。

 数秒後には、彼の気配は完全にクレバスの上へと消え去っていた。


「……勝手に直して、勝手にいなくなるなんて……許さねぇぞ」


 ライラは、自分の手の中に残る、彼が握った戦斧の微かな体温を確かめるように強く握りしめた。

 獣の姫の心臓に灯った、熱くドロドロとした『執着』の炎。

 彼女の鋭敏な鼻腔には、ジーンから漂っていた安酒と鉄錆、そして強烈な『雄の汗』の匂いが、しっかりと焼き付いていた。


 ◆


 一方、自由交易都市クロスロード。

 ジーンが所属する派遣型ギルド『銀の天秤』の内部は、かつてないほどの濃密な殺気に包まれていた。


「……だから言っているでしょう。ジーン様は、私のために『数トン』の重みを取り払ってくださったのです。私とジーン様の間には、誰にも割り込めない絆があるのですわ」


 神聖なオーラを放ちながら、恍惚とした表情でマウントを取るのは、箱入り聖女のソフィア。


「はっ、笑わせないで! あいつはね、私のこの右腕を『一番大事なもの』みたいに優しく扱ってくれたのよ! あんなに熱い手で触られたのは、私が最初なんだから!」


 巨大な杖を構え、顔を真っ赤にして叫ぶ大魔導士のエララ。


「二人とも寝言は休み休みにしなさいよ! ジーンの専属はこの私よ! 私の足首の『経過観察』は、絶対に他の誰にも譲らないわッ!」


 愛用の長剣を抜き放ち、ギリギリと歯を食いしばる氷の剣士セレス。


 三人の誇り高き美少女たちが、ただ一人の「恋愛バグ持ちポーター」を巡って、互いのプライドと独占欲を激突させている。

 ギルドの受付嬢マリーは、すでに胃薬の瓶を空にし、白目を剥いて気絶寸前だった。


(もう終わりだわ……このギルド、今日で確実に消滅する……!)


 マリーが最後の祈りを捧げた、その瞬間だった。


 ズドガァァァァァァァンッ!!!!


「きゃぁぁっ!?」


 ギルドの堅牢な石積みの壁が、まるで紙屑のように爆音と共に吹き飛んだ。

 もうもうと舞い上がるモルタルの粉塵。

 吹き飛んだ瓦礫の中から、百五十キロの黒鋼の戦斧を肩に担いだ、褐色の獣人の少女が悠然と姿を現した。


「……あァ? なんだ、ここは。メスの匂いがプンプンしやがるな」


 無敗の獣姫、ライラ。

 彼女は、崩れ落ちた壁を平然と踏み越え、ギルドの中央へと足を踏み入れた。

 その豹の耳をピクピクと動かし、鼻をクンクンと鳴らす。


「間違いない。あの『男の匂い』は、ここからした。……おい、そこの受付嬢」


 ライラは、気絶しかけているマリーの胸ぐらを片手で掴み上げ、獲物を狙う肉食獣の瞳でニヤリと笑った。


「アタシの『つがい』になる予定の、無愛想なヒョロガリ……ジーンは、どこにいる?」


 セレス、エララ、ソフィアの三人が、ピタッと動きを止めた。

 そして、三人の視線が、壁をぶち抜いて現れた『四人目の泥棒猫』へと、恐ろしいほどの静かな殺意を伴って一斉に向けられる。


「……は? つがい、ですって……?」


「……ただの野良犬が、随分と面白い冗談を言うじゃない」


「……斬るわよ」


 バチバチと、空中で四つの視線が交錯し、火花を散らす。

 当のジーン本人は、ギルドにも立ち寄らず、すでに次の『極限奉仕メンテナンス』の依頼先へと向かっていることなど露知らず。

 ヒロインたちによる、物理と魔法が飛び交う最悪の修羅場が、今、盛大に幕を開けようとしていた。


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