第18話:自由落下のハックと、屈服する本能
第18話:自由落下のハックと、屈服する本能
闘技場の地下深くへと続く、底なしのクレバス。
自由落下していくライラの視界は、風を切る轟音と、左膝から脳髄を突き刺す激痛によって白く濁っていた。
(……アタシが、死ぬ……? 闘技場の無敗の姫が、こんな惨めに……っ!)
どれほど強靭な闘気を練り上げようとも、空中に足場がなければ、ただ重力に従って落ちていくだけだ。数秒後には岩盤に激突し、この誇り高い肉体はただの赤い染みに変わるだろう。
死の恐怖が、彼女の獣としての本能を絶望で塗りつぶそうとした、その時だった。
「……まったく。だから稼働は推奨しないと言ったんだ」
猛烈な風切り音を無視するかのように、すぐ真横から、平坦で気怠げな声が聞こえた。
「え……?」
ライラが痛みに顔を歪めながら横を見ると、そこには、信じられないことにジーンが並んで落下していた。
いや、ただ落下しているのではない。
彼は空中で一切の姿勢を崩さず、まるで「ただそこに立っている」かのような異常な安定感で、彼女と目線を合わせていたのだ。
(……なんで、こいつが……!? アタシより後に飛び込んだのに、なんで追いつけるんだよ!)
獣の勘が、あり得ない物理現象に悲鳴を上げる。
物体の落下速度は重力加速度に依存する。後から飛び込んだ者が、先行する者に追いつくことは通常不可能だ。
だが、ジーンの脳内では、狂気的なまでの『システムハック』が完了していた。
『スロット1:【撥水】――対象:自身に受けるすべての空気抵抗の完全キャンセル』
『スロット2:【圧縮】――対象:自身の絶対質量および、落下に伴う運動エネルギーの制御』
『スロット3:空き』
空気抵抗(パラシュート効果)を【撥水】で完全にゼロに設定し、終端速度の制限を突破。さらに【圧縮】で自身の質量を操作し、重力加速度を上回る推進力を人工的に生み出す。
それは、純粋な物理法則に対する、極めてロジカルで暴力的な蹂躙だった。
「……荷物の損傷が拡大する前に、応急処置を行う」
ジーンは無表情のまま、空中でライラの華奢な体を、分厚い革手袋でガシリと抱き寄せた。
「ひゃっ……!?」
ライラの褐色の肌に、男の乾燥した熱い体温が伝わる。
ジーンの腕は、鋼のワイヤーのように固く、そして絶対的な安定感を持って彼女を包み込んだ。
直後、二人の足元にクレバスの底の岩盤が迫る。
激突まで、コンマ数秒。
(……このままじゃ、二人とも潰れる……ッ!)
ライラが恐怖に目を閉じた瞬間。
ズドォォォォンッ!!
凄まじい衝撃音がクレバスの底に響き渡った。
だが、ライラの体には、骨が砕けるような激痛も、内臓が飛び出すような衝撃(G)も、一切伝わっていなかった。
「……着地完了。自重および落下エネルギーの相殺、成功した」
ジーンの平坦な声が、薄暗い奈落の底で響く。
ライラが恐る恐る目を開けると、そこには、岩盤がクレーター状に陥没した中心で、片膝をついたまま涼しい顔をしているジーンの姿があった。
彼は、ライラを抱いたまま、自らの分厚い大腿四頭筋と背筋の連動、そして【圧縮】のスキルを極限まで同調させ、数百トンの衝撃エネルギーを完全に肉体だけで『殺し尽くした』のだ。
「お前……なんだよ、それ……。魔法じゃ、ない……ただの、筋力で……?」
ライラは、ジーンの胸元に抱かれたまま、恐怖ではなく、圧倒的な『雄』としての強さに震えていた。
獣人は、本能的に「自分より強い者」に惹かれ、従う性質を持っている。
ライラはこれまで、誰にも負けたことがなかった。だから、男をすべて「自分より弱い存在」として見下してきた。
だが今、彼女の目の前にいるのは、魔法という小細工を使わず、純粋な物理法則と肉体だけで自分をねじ伏せた、底知れない化け物だった。
「……あ、あのさ……」
ライラの声が、今まで一度も出したことのないような、甘く、か細いものに変わる。
だが、ジーンは彼女のそんな「本能の屈服」など、一瞥もしていなかった。
(……左膝関節の損傷は深刻だ。だが、半月板の完全な粉砕には至っていない。今なら、骨格の再配置と圧迫の解除で、稼働率を一時的に復旧できるな)
「……動くな。毛皮(外装)の傷は浅いが、内部のサスペンションが歪んでいる」
ジーンはライラを地面に横たわらせると、彼女の左足首を掴み、躊躇いなく太ももまで革手袋を滑らせた。
「ひゃんっ……!? ちょ、どこ触って……っ!」
ライラの豹の耳がパタパタと痙攣し、腰の後ろの尻尾が、無意識に、だが激しく左右に揺れ始める。
ジーンの分厚い手が、彼女の左膝の関節を、極めて正確な角度で包み込む。
そして、【圧縮】の微細なコントロールを用いて、摩擦で癒着しそうになっている骨と軟骨の間に、ミリ単位の『隙間』を物理的に作り出した。
ゴクリ……。
「ああっ……! んんっ……、そこ……っ」
関節のズレが完璧な位置へと戻り、せき止められていた血流が一気に解放される。
痛みが完全に消え去り、代わりに、内臓の奥がキュンと甘く締め付けられるような、強烈な快感がライラの全身を駆け巡った。
(……アタシ、どうしちゃったんだよ……。男に触られて、こんな……声が、出ちゃうなんて……っ)
ライラは、顔を耳の先まで真っ赤に染め、潤んだ瞳でジーンの横顔を見上げた。
無機質で、冷徹で、だけど自分の痛みを完璧に取り除いてくれる、絶対的な強者。
「……結合完了。一時的な処置だが、これで本日のスケジュールは完遂できるはずだ」
ジーンは、何事もなかったかのように立ち上がり、パンパンと手袋の汚れを払った。
彼の気怠げな三白眼には、ライラの火照った体も、彼女が無意識に振っている尻尾も、全く映っていなかった。
「……えっ? もう、おしまい……?」
ライラは、信じられないという顔で彼を見た。
獣の勘が、はっきりと告げている。この男からは、自分に対する『欲情』や『下心』の匂いが、完全に欠落していると。
自分を圧倒的な力で屈服させておいて、最後はただの「荷物の修理」として放置する。
(……ふざけんな。アタシを、こんなにメスにさせておいて……っ)
獣の姫の心臓に、これまで感じたことのない『独占欲』と『初恋の熱』が、ドロドロに溶け合いながら燃え上がっていた。




