第15話:ベクトルの反転と、息のしやすい夜
第15話:ベクトルの反転と、息のしやすい夜
夜空を埋め尽くすほどの、炎の槍と氷の矢。
暗殺部隊が放った致死の魔法群が、絶体絶命の包囲網となってジーンとソフィアに降り注ぐ。
着弾まで、コンマ数秒。
「……」
だが、ソフィアを片腕に抱いたジーンの気怠げな三白眼は、迫り来る魔法の脅威を微塵も映していなかった。
彼が見ていたのは、魔法そのものではない。それらが持つ『運動エネルギーの進行方向』という、極めて単純な物理データだけだ。
(……障害物の接近を確認。配送ルートのクリアリングを実行する)
『スロット3:【受取拒否】――対象:自身の半径一メートル以内に侵入するすべての外的エネルギーのベクトル反転』
カチリ、と。
ジーンの脳内で、三つ目の物理的なスイッチが入る。
それは、本来であれば宛先不明や受取人が受け取りを拒んだ『荷物』を、発送元へと強制的に送り返すためのポーターのジョブスキルだ。
ジーンはそのシステムを極限まで拡大解釈し、自身に向かって殺到するあらゆる物理的・魔力的エネルギーを『宛先不明の荷物』としてシステムに誤認させ、その進行方向を強制的に一八〇度書き換えて撃ち出した術者へと『返送』する、理不尽極まりないシステムハックを完了させていた。
直後、王都の屋根の上で、あり得ない現象が起きた。
「なっ……!?」
暗殺部隊のリーダーが、驚愕に目を見開いた。
ジーンの頭上に降り注いだ炎と氷が、まるで透明なチタンの壁に激突したかのように、不自然な直角の軌道を描いて『撃ち出した術者たち』へと全速力で跳ね返っていったのだ。
作用・反作用の法則を完全に無視した、理不尽極まりない運動エネルギーの逆流。
ズドォォォンッ!!
「ア゛アァァァッ!?」
「ガッ……火が、体がッ!」
夜の王都に、肉が焼け焦げ、骨が凍り砕ける生々しい音が響き渡る。
魔法の煌びやかな光などない。ただ、己の放ったエネルギーを一切の減衰なくダイレクトに叩き込まれた暗殺者たちが、自らの魔法によって次々と自滅し、屋根から泥の路地裏へと落下していった。
一切の魔法を使わず、一歩も動くことなく、十数人の特級暗殺部隊が全滅した。
「……障害物の排除、完了。搬出を再開する」
ジーンは、焼け焦げた死臭が漂う屋根の上で、ただ無機質に状況を報告した。
そして再び【免震】の歩法を起動させると、吐血して意識を失いかけているソフィアを抱いたまま、月明かりの王都を抜け、城壁の外へと音もなく駆け出していった。
◆
王都から数キロ離れた、星空の見える小高い丘。
ジーンは、冷たい夜風が吹く草の絨毯の上に、ソフィアを静かに横たわらせた。
「ハァッ……ァ……っ、痛い、です……」
ソフィアの唇から、再び赤い血の泡が漏れる。
二・五トンの質量を誇る『聖法衣』。その暴力的な重圧は、彼女の華奢な肋骨を内側へとひしゃげさせ、肺と心臓を物理的に圧殺しようとしていた。血中酸素濃度は危険域に達し、青白かった彼女の肌は、土気色へと変わりつつある。
(……内部パッケージ(内臓)の損傷が進行している。このままでは、納品前に荷物が自壊するな)
ジーンは、一流の解剖医のように彼女の骨格と呼吸の異常をスキャンした。
対処法は一つしかない。この「重すぎる外装」を解除することだ。
「……これより、過剰パッケージのパージを行う。少し我慢しろ」
ジーンは片膝をつき、泥に汚れた分厚い革手袋を、ソフィアの胸元で鈍く光る法衣の巨大な留め具へと伸ばした。
だが、ただ外せばいいというものではない。
数トンの荷重で抑え込まれている肋骨を急に解放すれば、その反発力で骨格自体が砕け散る。深海から急浮上した潜水艦が水圧の変化でひしゃげるのと同じ理屈だ。
(……留め具の解除と同時に、俺の指の力で荷重の抜けをミリ単位でコントロールする。サスペンションの減衰力を、手動で調整するんだ)
ジーンの分厚い腕に、凄まじい力が込められる。
大腿四頭筋で大地を踏みしめ、背筋のタメを指先へと集中させる。
カチャリ……。
金属の留め具が、重い音を立てて外れた。
その瞬間、二・五トンの法衣がソフィアの体から離れようとする。ジーンは自らの指先を極小のジャッキのように使い、彼女の胸郭にかかる物理的なテンションを、一〇〇キロ、五十キロ、十キロと、絶妙なグラデーションで抜いていった。
ミシミシと、押し潰されていた彼女の軟骨が元の位置へと戻っていく。
血流を阻害していた物理的なノイズが完全に消え去り、堰き止められていた血液が、一気に毛細血管の隅々まで駆け巡る。
「あ……ぁっ……!」
法衣が完全に外され、薄いシュミーズ一枚の無防備な姿になったソフィアの体が、ビクンと大きく跳ねた。
潰れかけていた肺が、十数年ぶりに本来の容積まで大きく膨らむ。
冷たくて、新鮮な夜の空気が、彼女の気管支を満たし、細胞の一つ一つを歓喜で打ち震わせた。
「……パッケージの解除、完了。バイタルサイン、正常値へ復帰」
ジーンは、外した数トンの法衣を無造作に地面へ放り投げ、パンパンと手袋の汚れを払った。
彼が見ているのは、下着同然の姿になった美しい少女の素肌ではない。ただ、「機材の内部構造が修復されたこと」への事務的な安堵だけだった。
「……っ、ぁ……」
ソフィアは、ゆっくりと目を開けた。
視界いっぱいに広がる、宝石を散りばめたような満天の星空。
肩を押し潰す重力はない。息をするたびに内臓が軋む痛みもない。
ただ、優しい夜風が、自分の素肌を撫でている。
彼女は、自分が「神の道具」としての重圧から完全に解放され、ただの「一人の人間」になれたのだという事実を、細胞の奥底で理解した。
「……息が」
ソフィアは、よろよろと身を起こすと、目の前で次のルート計算をしているジーンの胸元へと、縋り付くように倒れ込んだ。
「……息が、しやすいです……。こんなに、空気が美味しいなんて……知らなかった……っ」
ポロポロと、大粒の涙が彼女の瞳から溢れ出し、ジーンの泥だらけのコートを濡らしていく。
彼女は、安酒と汗と鉄錆の匂いがするその分厚い胸板に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
何の見返りも求めず、綺麗事の神すらも無視して、自分をこの地獄から救い出してくれた、世界で最も不器用で優しい男。
箱入り聖女の無垢な心臓は、この瞬間、初恋の熱で完全にドロドロに溶かされていた。
だが。
そんな彼女の切実な体温を受け止めながらも、ジーンの気怠げな三白眼は、ただ夜空の星を読んで、次の目的地の座標を割り出していた。
(……これで、荷物の自壊の危険性は排除された。あとは、指定されたポイントへ納品するだけだ)
恋愛感情の回路が完全にバグっているエージェントと、すべてを捧げようと泣きじゃくる聖女。
星空の下、極大の温度差が交差する夜は、まだ始まったばかりだった。




