第14話:完全免震の歩法と、追跡者の影
第14話:完全免震の歩法と、追跡者の影
ジーンの分厚い革手袋が、ソフィアの華奢な体を、まるで壊れやすい硝子細工を扱うかのように、しかし絶対的な安定感を持って抱き上げた。
「あっ……!」
ソフィアの口から、驚きの声が漏れる。
二・五トンの呪いが籠った聖法衣。これまで彼女の骨格を容赦なく圧殺し、一歩歩くごとに大理石の床を削っていたその絶望的な質量が、ジーンの腕に抱かれた瞬間、フッと嘘のように消え去ったのだ。
(……【圧縮】による絶対質量の低下、完了。これで彼女の自重負荷は規定値内に収まった。だが……)
ジーンの思考は、まだ搬出ルートの安全確保にリソースを割いていた。
対象は、長年の重圧により骨密度が著しく低下し、内臓も深刻なダメージを受けている。もし搬出中に少しでも振動を与えれば、彼女の椎間板は砕け、肺は破裂するだろう。
「……目を閉じていろ。少し、揺れる」
ジーンは無機質に告げると、大聖堂の地下祈祷室から、月光の射し込む王都の夜の街へと駆け出した。
だが、その言葉とは裏腹に、ソフィアの体には、一ミクロンの揺れすら伝わっていなかった。
「……えっ?」
ソフィアは、ジーンの分厚い胸板に頬を寄せたまま、信じられない思いで目を瞬かせた。
ジーンの足元では、石畳を蹴る猛烈な破砕音が響き、周囲の景色が恐ろしいスピードで後ろへと流れ去っている。にもかかわらず、彼の腕の中にいるソフィアの視界は、まるで波一つない静かな湖面に浮いているかのように、完全に凪いでいたのだ。
(……ジョブスキル【免震】。歩行時の上下動、および推進力によるGの発生を、関節のサスペンションと筋肉の収縮で完全に相殺する)
ジーンの肉体は今、極限の演算処理を行っていた。
石畳の凹凸、風圧、そして自身の体重移動。それらすべての『物理的なノイズ』を、彼は足首の角度と膝の屈曲、そして大腰筋の微細な調整によって、一歩ごとに吸収し、ゼロに還元している。
それは、魔法使いの浮遊のような不自然な滑らかさではない。
大地を蹴る泥臭い衝撃を、己の肉体という極上のショックアブソーバーで完全に殺し尽くす、狂気的なまでの『物理法則のハック』だった。
「……すご、い……。まるで、空を飛んでいるみたい……」
ソフィアは、夢心地で呟き、ジーンの擦り切れたコートの襟をそっと握りしめた。
長年、重力という檻に繋がれ、一歩歩くごとに血を吐くような痛みに耐えてきた彼女にとって、この『揺れ一つない逃避行』は、どんな神の奇跡よりも優しく、暖かかった。
ジーンの胸元からは、安酒と、鉄錆と、そして男の汗の匂いがする。
大聖堂の神官たちが纏っていた、あの腐敗臭のような乳香の匂いは、もうどこにもない。
ソフィアは、この泥臭い匂いこそが、自分を救い出してくれる『本物の英雄』の匂いなのだと、胸の奥を熱く焦がしていた。
だが、そんな彼女のロマンチックな陶酔を、ジーンの冷徹な思考が容赦なく切り裂く。
(……後方約二百メートル。複数の生体反応が急速に接近中。歩幅と足音から推測するに、神殿所属の暗殺部隊か)
ジーンの三白眼が、月明かりの届かない路地裏の暗がりを鋭く睨みつけた。
国を護る防壁の動力源である聖女の逃亡。神殿側がそれに気づかないはずがなく、当然、即座に追手を差し向けてきたのだ。
「……雇い主。追跡者が来る。搬出ルートをCプランに変更する」
ジーンは歩法を崩さぬまま、路地裏の壁を蹴り、王都の屋根の上へと一気に跳躍した。
だが、追手の動きも早かった。
「そこまでだ、裏切り者の聖女よ。……そして、名も知らぬネズミめ。その尊き御体を下ろせ!」
屋根の上に、黒い装束を纏った十数人の暗殺者たちが音もなく降り立つ。
彼らの手には、殺傷力の高い呪毒が塗られた短剣と、詠唱を完了させた魔導符が握られていた。
「ああ……っ、嫌……捕まりたくない……っ!」
ソフィアが恐怖に顔を引き攣らせ、ジーンの胸に顔を埋める。
彼女の脳裏に、再びあの暗く冷たい地下室と、内臓を潰される激痛がフラッシュバックする。
パニックによる過呼吸。そして、極度の恐怖が、彼女の弱り切った肉体に致命的なエラーを引き起こした。
「ゲホッ……ァ、アァッ……!」
ソフィアの口から、どす黒い鮮血が噴き出した。
恐怖によって急激に収縮した血管が、長年の重圧で脆くなっていた肺の毛細血管を破裂させたのだ。
「……チッ」
ジーンが短く舌打ちをする。
それは、追手の襲撃に対する焦りではない。
『護衛対象(荷物)』の内部パッケージが破損し、納品スケジュールに致命的な遅延が生じることへの、プロとしての苛立ちだった。
「聖女様、あなたの血で王都の平和は保たれるのです。……死してなお、その重責を全うなさい!」
暗殺部隊のリーダーが冷酷に言い放ち、十数枚の魔導符が一斉に空へと放たれた。
無数の炎の槍と氷の矢が、逃げ場のない屋根の上の二人へと降り注ぐ。
腕の中の聖女は吐血して倒れ、四方八方からの魔法攻撃が迫る。
王都の夜空の下で、ジーンは絶体絶命の包囲網の中に完全に孤立していた。




