第13話:密室の搬出依頼と、数トンの呪縛
第13話:密室の搬出依頼と、数トンの呪縛
始まりの国グロリアス。王都の最奥に位置する、大聖堂の地下祈祷室。
ステンドグラスから差し込む冷たい月光だけが頼りの密室で、甘く、そしてどこか腐敗臭に似た乳香の煙が濃密に立ち込めていた。
「……どうか、私を誘拐してください。ジーン様」
祭壇の前に膝をつく少女の、血を吐くような懇願だった。
聖女ソフィア。
神の声を聴き、国を厄災から守る絶対的な防壁を張る、この国の最高位に属する少女。
豪奢な金糸で彩られた純白の『聖法衣』に身を包む彼女の美しさは、まさしく神聖不可侵の美術品そのものだ。
だが、その美しい法衣の裏側で、彼女の肉体は誰にも聞こえない悲鳴を上げ続けていた。
(……痛い。息が、できない……)
物心ついた時から、彼女はこの国を護る『防壁の動力源』として、この地下室に繋がれてきた。
彼女が纏う純白の法衣は、ただの衣服ではない。装着者の生体エネルギーを強制的に吸い上げ、物理的な質量へと変換して結界を展開する『呪具』だ。
日を追うごとに増していく暴力的な重圧。頸椎から腰椎にかけての椎間板は限界まで押し潰され、横隔膜は数ミリしか動かせない。常に浅い呼吸を強いられ、心臓が泥水の中で脈打つような息苦しさが、二十四時間休むことなく彼女を苛んでいる。
それなのに、彼女を管理する高位の神官や聖騎士たちは、ソフィアの口から零れる血をハンカチで優しく拭いながら、陶酔しきった顔で言うのだ。
『おお、聖女様。国のための尊い御奉仕、感謝に堪えません。あなたのその痛みこそが、神の愛なのです』
狂っていた。
誰一人として、彼女の『物理的な苦痛(死)』を直視しようとはしなかった。彼らはソフィアを「尊い犠牲」という美しい檻に閉じ込め、彼女の骨が軋み、内臓が圧殺されていく生々しい現実を、神聖な綺麗事で完全にコーティングしていたのだ。
もう、限界だった。
このままでは、遠からず自分の内臓は破裂し、国のために美しく使い潰される。
だから彼女は、最後の気力を振り絞り、かつて王都で耳にした『どんな規格外の荷物でも、完璧に無傷で運び出す狂気のポーター』の噂にワラにもすがる思いで縋った。
彼なら、この重すぎる宿命ごと、自分を外の世界へ運び出してくれるかもしれない。
ギルドを通し、極秘裏に『大聖堂内の不用品の搬出と廃棄』という名目で、ジーンをこの地下室へ呼び寄せたのには、そんな悲痛な経緯があったのだ。
だが。
その背後に無音で立つジーンの気怠げな三白眼は、彼女の決死の覚悟にも、神秘的な美貌にも、一切の興味を示していなかった。
(……乳香の匂いに混じる、微かな鉄錆の臭気。……口腔内の粘膜、あるいは消化器系からの出血か)
ジーンの思考は、一流のエージェントとして、眼前の『機材』のコンディションを極めて冷徹にスキャンしていた。
「……状況が呑み込めない。俺への指名依頼は『大聖堂内における不用品の搬出と廃棄』だったはずだが」
ジーンは背負っていた巨大な荷物袋を音もなく床に下ろし、手袋の留め具を弄りながら淡々と返した。
ソフィアは、血の気のない青ざめた顔で、ゆっくりと立ち上がろうとする。
「はい。ですから……この国にとっての不用品を、どうか……ッ、ぁっ……」
ソフィアがジーンの方へ向き直り、一歩を踏み出そうとした瞬間。
彼女の華奢な体が激しくぐらつき、その場に崩れ落ちそうになった。
ズゥゥン……。
彼女の足が床についた刹那。
硬質な大理石で舗装されているはずの床から、分厚い岩盤が軋むような、物理的にあり得ない重低音が響いた。
(……歩行周期における、立脚期が異常に長い。下腿三頭筋の完全な硬直。そして、大理石の床との接触面に発生している、異常な摩擦係数と反発力の欠如)
ジーンの視界に展開されたシステムUIが、ソフィアの肉体と、彼女が纏っている純白の『聖法衣』から発せられる致死的なエラー数値を弾き出した。
神聖なオーラなどではない。
彼女の着ているその法衣は、物理法則上「数トンの鉄塊」と全く同じ絶対質量を保持していた。
(……推定質量、約二・五トン。それを、彼女自身の細い骨格と貧弱な筋力だけで支え続けている状態か。血中酸素濃度の低下によるチアノーゼが、指先に出始めている)
ジーンの目が、微かに細められる。
だが、それは悲劇のヒロインへの同情ではない。
世界で最も不器用な職人の脳内バグは、大真面目に、そして極めてスマートにこの状況を「物流のトラブル」として処理していた。
(……なるほど。この規格外の重量物を、周囲の警備に気づかれずに指定ポイントまで輸送しろという、極秘の『特殊搬出案件』か。……大聖堂の不用品とは、よく言ったものだ)
ジーンの顔に、悪意や冷笑は一切ない。
ただ、提示された業務の難易度と、要求されるスキルの出力をロジカルに計算しているだけだ。
「……状況は理解した」
ジーンは無表情のまま、崩れ落ちそうになっているソフィアの目の前へと、足音を立てずに歩み寄った。
「え……?」
「だが、指定された荷物の重量が、事前の申告と著しく異なる。それに、この積載状態のままでは搬出ルートの途中で荷物が自壊する可能性が高い」
ジーンが冷徹に告げた言葉に、ソフィアはハッと息を呑んだ。
『重量が異なる(=私の背負っている宿命が重すぎる)』。
『荷物が自壊する(=このままでは私が死んでしまう)』。
彼女には、彼が自分の過酷な運命をすべて見通した上で、その「命の重さ」を気にかけてくれているように聞こえたのだ。
痛みを「神の愛」と誤魔化す神官たちとは違う。彼は、自分の抱える途方もない『重さ』を、正面から、ありのままの事実として受け止めてくれた。
「ジーン様……私、追加の報酬なら、いくらでも……っ」
「……当然だ。これは特級の搬出業務になる。相応のオプション料金を請求させてもらう」
ジーンは一切の感情を交えず、ただの『見積もりの変更』として頷いた。
「ありがとうございます……っ!」
ソフィアの瞳から、安堵の大粒の涙がこぼれ落ちる。
彼女は、初めて自分を「国の道具」としてではなく、一人の人間として救い出そうとしてくれる(と完全に勘違いしている)この泥臭い男に、痛いほどの熱と信頼を寄せていた。
だが、ジーンは、その涙にも、彼女の熱っぽい視線にも全く靡かない。
彼はただ、眼前の『数トンの精密機械』を安全に運び出すための、極限のタメ(予備動作)に入っていた。
『スロット1:【圧縮】――対象:聖法衣のデータ容量および絶対質量』
『スロット2:【免震】――対象:搬出時における自他の歩行振動の完全相殺』
『スロット3:空き』
カチリ、と。
脳の奥底で、物理的なスイッチが切り替わる生々しい感覚。
ジーンの足幅が、静かに開いた。
肩幅よりやや広く、つま先を外側へ十五度。
二百キロのバーベルを担いで高強度のスクワットを行う時と全く同じ、寸分の狂いもない完璧な重心移動。
大理石の床に泥まみれのブーツが食い込み、分厚い大腿四頭筋とハムストリングスが、断裂寸前のギリギリとした軋み音を立てる。鋼ワイヤーのように鍛え抜かれた全身の筋肉が連動し、大地からの反発力を骨盤から脊椎へ、そして両腕へとロスなく伝達していく。
「……搬出を開始する。舌を噛まないように、歯を食いしばっておけ」
ジーンの擦り切れた分厚い革手袋が、呪いに縛られた純白の聖女へと、容赦なく伸びていった。




