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第11話:絹糸の修復と、魔法使いの敗北

第11話:絹糸の修復と、魔法使いの敗北


 魔の森に、濃密な静寂が落ちていた。


 頭部を完全に粉砕されたバジリスクの巨体が、ジーンの足元でピクピクと最後の痙攣を起こしている。

 その光景を、エララは泥にまみれたまま、呆然と見上げていた。


(……一撃? 魔法も使わずに、ただの物理的な質量だけで、あのバジリスクを……?)


 彼女が数百年の研鑽を積んできた「魔法」という名の技術体系が、目の前の男の純粋な「暴力(物理)」によって、いとも容易く凌駕された瞬間だった。

 だが、今のエララには、自身の価値観の崩壊を嘆く余裕すらない。


「あ……アァァッ……!」


 右腕から絶え間なく発信される激痛が、再び彼女の脳髄を支配した。

 完全に断裂した上腕二頭筋と三角筋。その激痛は、魔力による痛覚のマスキングすら突き破り、彼女の呼吸を乱し、脂汗を浮かばせている。


「……やはり、筋膜の完全崩壊か。無理な稼働を続けた結果だな」


 ジーンは気怠げな三白眼で彼女の腕を冷徹に一瞥すると、手にした魔宝石の杖――先ほどバジリスクの頭蓋を砕いたばかりの『超質量の鉄塊』を、彼女の傍らに静かに置いた。

 そして、五百キロの荷物を背負ったまま、全く足音を立てずにエララの横へと片膝をつく。


「な、何をする気……? 触らな……痛ッ!」


 エララが身をよじって後ずさろうとしたが、ジーンの分厚い革手袋が、彼女の華奢な右肩を「絶対に逃がさない」という強固な意思を持った万力のように、ガシリと押さえ込んだ。


「……動くな。断裂した筋繊維の末端が、収縮して肩甲骨の裏に巻き込まれかけている。今暴れれば、一生杖を持てない腕になるぞ」


 ジーンの声には、怪我人に対する同情も、エルフの美女に触れる下心も、一切含まれていなかった。

 ただ、目の前にある「致命的なエラー」を処理するための、解剖医のような無機質な響きしかなかった。


『スロット1:【圧縮】――対象:彼女の右腕にかかる重力および自重負荷』

『スロット2:【撥水】――対象:切断された筋繊維間に流入する血液および細胞外液』

『スロット3:空き』


 カチリ、と。

 ジーンの脳内で、物理的なスイッチが切り替わる。


「……え?」


 エララは、自身の右腕に起きた信じられない現象に目を見開いた。

 ジーンの手が彼女の腕に触れた瞬間、鉛のように重く、激痛の源となっていた右腕の質量が、フッと無重力のように消滅したのだ。

 さらに、内部で出血し、パンパンに腫れ上がろうとしていた筋肉の圧迫感が、見えないフィルター(撥水)によってスーッと引いていく。


(……【圧縮】による自重の完全排除。これで、筋肉にかかるテンションはゼロになった。次に【撥水】による患部からの体液の排除。これで、結合部の視野と環境はクリアに保たれる)


 ジーンの思考は、狂気的なまでにロジカルだった。

 彼は、エララの右腕を「千切れる寸前の最高級の絹糸」を扱うように、極めて慎重に、そして優しく持ち上げた。

 魔法使いのエルフである彼女は、これまで男に力強く触れられた経験など皆無に等しい。

 ジーンの手のひらから伝わる、分厚く、乾燥した確かな『雄』の体温。それが、痛みの消え去った彼女の素肌に、ダイレクトに熱を注ぎ込んでくる。


「……フゥゥゥ」


 ジーンは浅く息を吐き、自らの指先に極小の【圧縮】を集中させた。

 彼は、エララの皮膚の上から、断裂して丸まった筋繊維の末端を正確に捉える。そして、物理的な圧力のみを用いて、その繊維を一本一本、本来の定位置へと引き伸ばし、パズルのように噛み合わせていく。


「ああっ……! んんっ……!」


 ゴリッ、という生々しい感触が、エララの腕の中で鳴る。

 だが、そこには全く痛みがなかった。

 それどころか、長年彼女の腕に蓄積していた「魔法の反動による微細なコリ」までが、彼の手もみによって完全に解きほぐされていくのだ。

 圧倒的な解放感と、全身を駆け巡る血流の心地よさ。


(……何よ、これ……魔法の治癒より、ずっと……気持ちいい……)


 エララの口から、彼女自身も信じられないほど甘く、熱っぽい吐息が漏れた。

 心拍数が急上昇し、白い頬がカーッと朱に染まる。

 彼女は今、数百年の誇りを持つ大魔導士としてではなく、一人の無防備な女として、彼の完璧なケアに完全に融解しそうになっていた。


「……結合完了。一時的な処置だが、これで自重で崩壊することはないだろう」


 ジーンは、何事もなかったかのように立ち上がり、パンパンと革手袋の泥を払った。

 その目は、エララの火照った顔も、潤んだ瞳も全く見ていない。

 彼が見ているのは、ただ「修理が完了した右腕の可動域」だけだった。


「……えっ? あ、もう……終わりなの……?」


 エララは、信じられないものを見るような目でジーンを見上げた。

 これほど優しく、これほど完璧に自分の体を労わってくれたのに。

 彼からは、自分に対する『欲情』や『執着』の匂いが、1ミクロンも感じられないのだ。


(……この男、私を……女として、少しも見ていないの……?)


 数百年間、誰かに庇護されることなどなかった。

 常に他者を見下し、魔法の力だけで生きてきた。

 だが今、彼女の心臓を狂わせているのは、魔法でも誇りでもない。

 ただ、この不器用で、泥臭くて、底知れないプロ意識を持った男の「残熱」だけだった。


「……休憩時間は終わりだ。雇いクライアント。これ以上のスケジュールの遅延は、俺の業務評価に関わる」


 ジーンは気怠げな三白眼で、ただ冷徹に、下山の準備を促した。


「……っ」


 エララは、自分の胸の奥で、何かが決定的に壊れていく音を聞いた。

 それは、大魔導士としての矜持が崩れ去る音であり、同時に、一人の女の子としての『初恋』が、痛いほどの熱を伴って産声を上げた瞬間でもあった。


「……わかったわよ。でも……」


 エララは、震える足で立ち上がり、ジーンの分厚いコートの裾を、ギュッと弱々しく掴んだ。

 彼女の顔は耳まで真っ赤に染まり、かつての高慢な態度は見る影もない。


「……もう少しだけ、ゆっくり歩きなさいよね。私の腕、まだ……ちゃんと、診てもらわないと、ダメなんだから……」


 上目遣いで紡がれた、精一杯の強がりと甘え。

 だが、その強烈な熱情も、恋愛感情の回路が完全にバグっている不器用なエージェントには、全く別の意味として変換されていた。


(……なるほど。術後の経過観察として、歩行ペースの低下を要求しているのか。確かに、稼働率を維持するためには合理的な判断だ)


 ジーンは、大真面目な顔で小さく頷き、荷物袋を背負い直した。


「……承知した。ペースを規定の七十パーセントに下方修正する」


 全く噛み合っていない、極大の温度差。

 だが、その致命的なすれ違いこそが、高慢なエルフの大魔導士を、彼という名の底なし沼へさらに深く沈めていくのだった。


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