第9話:魔導の反動と、限界の筋繊維
第9話:魔導の反動と、限界の筋繊維
神聖魔導国リュミエール。
空に巨大な魔力陣が幾重にも浮かび、水晶と白亜で造られた尖塔が立ち並ぶ、魔法至上主義の国。
この国では、己の魔力量こそが絶対的な身分証明であり、汗水流して働く「肉体労働者」は、魔法の使えない最も底辺の階級として蔑まれている。
そんな王都の中央ギルド前で、ジーンは気怠げな三白眼をわずかに細めていた。
「……遅いわね。這いずるしか能のない人間は、本当に時間が無駄になるわ」
ジーンの前を歩くのは、豪奢なローブを纏い、身の丈ほどもある巨大な魔宝石の杖を持ったエルフの女性だった。
大魔導士エララ。
数百年の時を生きる彼女は、この国でもトップクラスの魔力を持つ特級冒険者であり、今回のジーンの新しい雇い主だった。
「……申し訳ない。規定の重量制限を超過した積載物があったため、パッキングの再計算と重心の再設定に十二秒の遅延が生じた」
ジーンの背中には、エララが野営で使うための豪奢な天蓋付きベッド、高級ワインの樽、無数の魔導書など、総重量五百キロを超えるであろう理不尽な荷物が、巨大な革袋に詰め込まれている。
普通なら馬車を使う量だが、魔法使いであるエララは「獣の匂いがローブに移る」という理由で、全てを人間のポーターに背負わせていた。
「言い訳はいいわ。さっさと歩きなさい。私の美しい魔法の邪魔にならないように、せいぜい後方で這いつくばって荷物を守ることね」
エララは高慢に鼻で笑い、振り返ることなく歩き出した。
その背中を追いながら、ジーンは無表情のまま、彼女の歩行フォームの解析を開始していた。
(……歩幅、体重移動、体幹のブレ、異常なし。だが……)
ジーンの視線は、彼女の滑らかな足取りではなく、彼女が右手に握っている『巨大な魔宝石の杖』に向けられていた。
その杖は、エララの強大な魔力を増幅させるための特級品だが、質量も相当なものだ。推定重量、約二十キロ。
(……杖の重量と、彼女の右腕の筋肉量が全く釣り合っていない。魔力による『身体強化』で無理やり持ち上げている状態か。……ひどく燃費が悪いな)
一流の武具職人が、剣を振るう前の「構え」を見ただけで、その剣が何回の素振りで折れるかを正確に計算できるように。
ジーンの目には、エララの右腕の筋肉が、常に限界ギリギリのテンションで悲鳴を上げているのが透けて見えていた。
◆
王都から少し離れた、魔の森。
今回の依頼は、森に異常発生した低級魔物の『間引き』だった。
「さあ、見せてあげるわ。数百年の時が練り上げた、至高の魔術を!」
エララが足を止め、二十キロの杖を高く掲げた。
周囲の大気が急激に乾燥し、彼女の杖の先端に莫大な熱量を持った炎の渦が収束していく。
「【爆炎の嵐】!」
轟音。
放たれた巨大な火球が、森の木々ごと十数匹のゴブリンの群れを瞬時に消し炭に変えた。
圧倒的な火力。魔法至上主義の国でトップに君臨するだけのことはある。
「ふふっ、どう? これが本物の魔法よ。泥水すすって這いずるだけのあなたには、一生理解できない芸術でしょうけど」
エララは得意げに微笑み、ジーンを振り返った。
だが、五百キロの荷物を背負ったまま後方に控えるジーンの表情に、驚愕や称賛の色は一切なかった。
彼の気怠げな三白眼は、魔法の威力など全く見ていなかった。
(……やはりな。魔法の出力に対して、肉体側の『物理的反動』の処理が全く追いついていない)
ジーンの視界には、先ほどの魔法発動時のエララの肉体のエラーが、スローモーションの解析映像として焼き付いていた。
巨大な熱量を前方に放つということは、当然、後方に向かって同等の反作用が発生する。大砲を撃てば砲身が跳ね上がるのと同じ、絶対的な物理法則だ。
エララはそれを「魔法使いとしての矜持」で、細い右腕一本で無理やり押さえ込んでいた。
その結果どうなるか。
(……魔法を放つたびに、杖を握る彼女の右腕の三角筋から上腕二頭筋にかけて、凄まじい衝撃波が駆け抜けている。筋膜が引き攣れ、筋繊維が微細な断裂を起こしているぞ)
「……雇い主。一つ、忠告しておく」
ジーンは、大真面目な顔で、事務的な報告を行うように口を開いた。
「あら? 荷物持ち風情が、私の完璧な魔法に何かアドバイスかしら?」
「……右腕の三角筋から上腕二頭筋にかけて、筋繊維の微細な断裂が始まっている。さらに、魔法の反動を吸収しきれず、右の肩甲骨の軸が三ミリずれているな。このまま高出力の魔法を連発すれば、筋組織が完全に崩壊するぞ。出力の低下、もしくは杖の軽量化を推奨する」
「……はぁ?」
エララの美しい顔が、一瞬だけ呆れと不快感に歪んだ。
「筋繊維? 物理的な反動? 何を馬鹿なことを言っているの? 私の魔法は魔力で制御されているのよ。そんな泥臭い筋肉の話なんて、魔法使いの私に関係ないわ!」
「……魔力で誤魔化せるのは『疲労感(脳への信号)』だけだ。物理的な『肉体の損傷』は誤魔化せない。機材のメンテナンスを怠れば、必ず業務に支障が出る」
「黙りなさい! 魔法も使えない下等な人間が、知ったような口を利かないで!」
エララは激昂し、ジーンから顔を背けた。
数百年の誇りがある。ただの荷物持ちの「筋肉の心配」など、彼女の自尊心が許すはずがなかった。
(……忠告は無視か。まあいい。俺の業務は『荷物の運搬と管理』だ。彼女の身体のメンテナンスまでは契約に含まれていない)
ジーンは気怠げに息を吐いた。
彼はエララを見下しているわけではない。
「ユーザーがメーカーの警告を無視して機材を酷使している」という、よくある現場のトラブルとして処理しただけだ。
彼は五百キロの荷物を背負い直す。
ジョブスキル【圧縮】によって荷物の質量を軽減し、自身の体重を重くした上で、完璧な歩法で大地を踏みしめる。
ズン、という重い音と共に、ジーンの分厚い大腿四頭筋が滑らかに連動し、一切のブレなくエララの後を追う。
「……行くわよ。さっさとこの森の魔物を全滅させて、美味しいワインを飲むんだから」
エララは再び二十キロの杖を握り直し、森の奥へと進んでいく。
だが、その右腕は、彼女自身も気づかないうちに、微かに、しかし確実に痙攣を始めていた。
崩壊のカウントダウンは、もう止められないところまで進んでいる。
世界で最も物理法則に精通した不器用なポーターは、その無機質な三白眼で、雇い主の腕が壊れる瞬間をただ静かに待ち受けていた。




