10.
京から帰宅した後、ひどい熱が出るようになった。
医者の話では疲労が重なったからだという。
そんな……せっかく太郎様の故郷へ行く予定だったのに。
これでは母は許してくれない。
父はもっと話を聞いてくれないだろう。
「どうしよう……このまま行けなかったら、太郎様が帰ってきてもまたどこかへ行っちゃうかもしれない」
私は不安になって文を書いた。
送り先はうんのちゃん。
不安な思いの丈を綴ったもの――その返事はまもなく届けられる。
――「その時は私が呼び止めます。だから姫は療養に専念してください」
うんのちゃんの文に私は深くため息をついた。
ついついこぼしてしまう。
「どうかしら……うんのちゃんって結構騙されやすいし、太郎様に出し抜かれるんじゃないの?」
相変わらずの意地悪な言葉だと自覚している。
うんのちゃんならへらへらと笑っていることだろう。
◆◆◆
静かな時間が経過する。
うんのちゃんはまた故郷へ帰ってしまったから退屈だ。
私もついていきたい。
でも、この熱病の中だと迷惑をかけてしまう。
結局私はどこへも行けないのだろうか。
「姫……」
聞き覚えのある声に私は思わず起き上がった。
みんなが寝静まった静かな夜、開かれた蔀戸から月の光が入ってくる。
その明かりの中で照らされたのはずっと会いたかった少年であった。
「太郎様……」
私は寝具から抜け出して、彼の元へと近づこうとした。すぐに立ち上がれず無様に這いつくばる姿に太郎様は静かに言った。
「もう、私を求めるのはやめた方がいい」
その言葉は明らかな拒絶だった。
なぜそのようなことを言うのだろうか。
「いい加減、現実を見るんだ。姫はいつまでもいなくなった私のことを引きずるな」
彼が何を言っているのかわからなかった。
せっかく会えたのに、何でわけがわからないことを言うの?
私の様子を見かねた太郎様は、提案してきた。
「うんのはどうだ?」
何でうんのちゃん?
ますますわからない。
太郎様は話を続ける。
「うんのは、私も姫もよく知る存在――私はうんのなら姫を任せられると思っている」
もちろん問題は山積みだろう。
「姫の父は藤橘源平ではないうんのを認めないだろう。だが、姫の母ならば……うんのが姫を支えていたのを知る彼女なら後押ししてくれる」
太郎様の言っていることは残酷だ。
うんのちゃんは良い子だ。
私なんかの我儘も、悪態も、意地悪も、全て聞いてくれた。
母も父も私の言うことは聞いてくれない中、うんのちゃんは私の話を聞いてくれた。
きっとうんのちゃんと一緒になれたらそれはそれで楽しいのだろう。
でも、違う。
「私は太郎様が好きなの」
うんのちゃんは好きだけど、その好きは太郎様への想いとは違う。
「太郎様と一緒にいたい……太郎様がいないなら私には意味がないの」
「どうして、そんなにまで……ただの親が言いつけた関係だろう」
「一目惚れよ」
私は笑った。
顔が好み。雰囲気が素敵。
はじめはそれだけで好きだった。
でも、一緒にいるうちに太郎様のことをたくさん知りたいと思った。
太郎様も完璧じゃないのだと思うと年上なのに可愛らしく感じる。
時折見せる悲しい表情も気になっていた。
いつか大人になれば、彼を理解して支えられるようになる。
ならなければならない。
そう思っていた。
まだうんのちゃんのようにはできないけど、それでも私は彼の全てを受け止めたい。
考えれば考えるだけ太郎様のことばかりだった。
「それだけで私を……」
「あら、馬鹿にしないで。お母様は、それだけで全てを捨ててお父様を選んだのよ」
そして一門の棟梁にまで押し上げた。
残念ながら私はそこまでのことが出来なかった。
でも、それでも私は彼といたい。
「お願い。太郎様、私を連れて行って」
今、手を触れなければと私は手を伸ばした。
これを逃せば、一生太郎様に会えなくなる。
太郎様が拒絶しても良い。
誰が何と言おうが、触れて見せる。
ひやりとした手の感触、それに触れた瞬間に私の脳裏に浮かんだ記憶があった。
◆◆◆
――あれは父が太郎様を追討するように命じた日のことだ。
父の目を欺き、太郎様を逃したことで父はたいそう怒っていた。うんのちゃんは怖い御家人たちに捕縛されてどこかへ連れ出されてしまった。
だから、今太郎様のために動けるのは私だけだ。
「姫様、なりません」
私は侍女の手を掻い潜り父の元へ向かった。
父に言わなければならない。
太郎様を追討する命令を取り消すように。
怒った父は怖かった。それでも怖がっていたら後悔する。
「大丈夫よ。お父様は、私に甘いもの……私の我儘を何でも聞いてくれたわ」
いざとなればおじいさまも巻き込んでしまおう。
これが最後の願いだと言おう。
きっと父は願いを聞いてくれる。
父のいる母屋へ入った時、私より先に父の元へ勢いよく入る武者がいた。
ひどく興奮した様子で叫んでいた。
手に持つのは木製の蓋つきの桶。
武者はそれを高々に持ち上げた。
「木曾太郎義高の首をここに!」
その瞬間、あたりが真っ白になった。
気づけばいつもの生活の繰り返し。
侍女が朝の支度を促して、母が様子を窺い、たまに父が面倒な話を持ってきて、うんのちゃんが不思議な話を持ってくる。
でもその日々の中に太郎様はいなかった。
「太郎様はどこ?」
そう聞くとみんな反応に困っていた。
うんのちゃんだけ答えてくれた。
どこか遠い国へ行った。
その意味をわかっていたのに、私はうんのちゃんに悪態ばかりついていた。
太郎様はどこにもいない。
もうこの世にはいないから。――
◆◆◆
そして今、私は太郎様の手に触れた。
きっと私は太郎様と同じ場所に来れたのだ。
目頭が熱くなり、涙が溢れ出した。
私はじっと太郎様を見つめた。
「やっと……やっと会えた」
私の涙ぐんだ言葉に、太郎様は困ったように、悲しげに笑った。
彼の手は拒絶することなく私の手を握りしめてくれた。
その答えに、私は歓喜した。




