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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
共存の地図

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橋守の声

「聞いてくれ!」


 ナギは兵舎の屋根に登った。石造りの屋上から暴徒の群れを見下ろした。百人以上の男女が松明と石を手に集まっている。怒声が夜空に響く。「魔物を追い出せ!」「王都から出て行け!」。炎が揺れ、影が壁に跳ねている。


 将軍の兵士が盾で防壁を作っているが、市民を攻撃するわけにはいかない。兵士たちの目にも困惑があった。守るべき市民が暴徒になっている。


 ボルガが拳を握った。


【戦うか。我の拳で追い散らすのは容易い】


 ナギは叫んだ。


 「戦うな! ここで戦えば、千年前と同じだ。力で押さえつければ、橋は折れる。千年前にザルグが折った橋と同じことが起きる」


 ボルガが拳を下ろした。ファングが唸りを止めた。深淵蟲の使者が触角を畳んだ。六族の代表が動きを止めた。ナギの声に従った。


 ナギは暴徒の群れに向かって声を張り上げた。魔物語ではなく、人間の言葉で。


 「聞いてくれ! 怖いのはわかる!」


 暴徒の一部が立ち止まった。屋根の上の若い男を見上げた。


 「千年信じてきたものが嘘だったと言われたら、怒るのは当然だ! 俺だって追放されたとき、怖かった。世界が全部敵に見えた」


 声が震えていた。だが止めなかった。


 「俺は魔物と話せる人間だ。魔物語というスキルを持って生まれた。そのせいで気味悪がられ、軍から追放された。人間にも魔物にも居場所がなかった。追放されて、辺境で一人だった。誰も信じてくれなかった。でも魔物と話してみたら、あいつらも怖がっていた。人間を。千年間、お互いに怖がって、知らないまま千年が経った」


 暴徒の怒声が少し静まった。全員ではない。だが最前列の何人かが、石を握る手の力を緩めた。


 「知るのが怖いのは、人間も魔物も同じだ。俺は怖かった。ゴブリンに初めて会った時も怖かった。オークに会った時も怖かった。森狼族に会った時も怖かった。全部怖かった。でも話してみたら、あいつらは俺を食おうとしなかった。俺の話を聞いてくれた」


 ゴルドが屋根の下から叫んだ。三百年を生きた喉から、声比べの声が夜空に響いた。人間には意味のわからない音だ。だが力がある。声の力が。


 ナギが通訳した。


 「このゴブリンの爺さんは言っている。『怖いなら近くに来い。ワシの顔を見ろ。怖い顔かどうか、自分の目で確かめろ』と」


 暴徒の群れがざわめいた。ゴルドが兵舎の前に進み出た。小さな体。緑の肌。白い頭髪。百十センチの老人が、松明を持った百人の人間の前に立った。


 「怖い顔か? この爺さんの顔が、本当に怖いか?」


 ナギの声が暴徒に届いた。


 松明の炎がゴルドの緑の肌を照らしている。大きな耳。しわだらけの顔。骨飾り。だがその目は穏やかだった。好奇心に満ちた四十年の目。


 暴徒の中から、一人の男が前に出た。四十代。筋肉質。元兵士の体つきだ。顔に古い傷跡がある。


 「俺は兵士だった。辺境で魔物に仲間を殺された。恨んでいる。それでも共存しろと?」


 ナギは屋根から降りた。男の前に立った。目を見た。怒りの下にあるのは、悲しみだ。


 「俺は答えを持っていない。でも、お前の仲間を殺した魔物がなぜ攻撃したのか、聞いたことはあるか?」


 男は黙った。


 「聞いてみないか。俺が通訳する」


 百人の目がゴルドに集まった。松明の炎が揺れている。百人の人間と六族の代表が、一人の元兵士の答えを待っている。


 男の目から涙が溢れた。


 「聞きたい。聞きたかった。なぜだったのか。なぜ仲間が死ななければならなかったのか。ずっと知りたかった」


 群衆の怒りが、悲しみに変わった。悲しみが問いに変わった。


 石を置く音が聞こえた。一つ。二つ。三つ。松明を下ろす者が一人、二人と増えた。


 ゴルドが静かに前に進み出た。暗闇の中、緑の肌の老人が、人間の元兵士の前に立った。


 ゴルドが手を伸ばした。小さな緑の手。元兵士の大きな手。


 男はゴルドの手を見つめた。震える指が、ゆっくりとゴルドの手を握った。


【お前は仲間を失った。悲しかったな。ワシも仲間を失ったことがある。三百年の間に何度も。悲しみは種族を超える。ワシにはお前の悲しみがわかる】


 ナギが通訳した。声が震えた。通訳をしながら、自分も泣いていた。


 暴徒の群れが崩れた。怒りで集まった百人が、悲しみと問いを抱えた百人になった。石は全て地面に置かれた。松明は静かに消えていった。


 元兵士がゴルドの手を握ったまま、膝をついた。泣いていた。三年分の涙だ。仲間を失ってから、ずっと溜めていた涙だ。


 ゴルドが元兵士の頭に手を置いた。小さな緑の手が、大きな頭を撫でた。


【泣けばよい。泣くのは弱さではない。声を上げることじゃ。ゴブリンは泣く者を恥じない。泣いた後に立ち上がる者を讃えるのじゃ】


 ナギが通訳した。周囲の元暴徒たちが聞いていた。ゴブリンの言葉を。人間の通訳を通じて。


 一人の女性が前に出た。果物屋のおばさんだった。ゴルドに最初に林檎を売った人だ。嫌がらせを受けて店を閉めたあのおばさんだ。


 「あたしは知ってるよ。このゴブリンのお爺さんは、悪い魔物じゃない。うちの店に来て、林檎を買って、編み細工をくれた。貧民街で病人を治した。あたしはこの目で見た」


 おばさんの声が、群衆に届いた。


 隣の男が呟いた。「うちの婆さんも、ゴブリンの薬で腰が治った」。


 別の女が言った。「うちの子の熱を下げてくれた」。


 声が一つ、二つと広がった。ゴルドに助けられた人間たちの声。小さな事実の積み重ねが、千年の恐怖を食い破り始めた。


 将軍の兵士が盾を下ろした。もう防壁は必要なかった。


 トルクが呟いた。


 「すげえな。言葉で百人を止めやがった」


 ナギは一歩踏み出した。


 「俺が止めたんじゃない。ゴルドが止めた。果物屋のおばさんが止めた。貧民街で治療を受けた人たちが止めた。俺は通訳しただけだ」


 セリアがナギの背中に手を置いた。手が温かかった。声は出さなかった。だがその手の温もりが、全てを伝えていた。


 ナギは空を見上げた。王都の空は狭い。だが今夜、この狭い空の下で、千年の壁に穴が開いた。


 ボルガが腕を組んだまま呟いた。


【架け橋。お前の声は、我の鍛冶の炎より熱い。認める】


 ファングが短く鳴いた。


【嘘の匂いがしない。この場所の全員から、嘘の匂いが消えた】


 群体知性が脈動した。


【観測。暴動の確率が零に近づいた。原因は言語的介入と共感の伝播。分析結果を記録する】


 ナギは鼻で笑った。スライムは相変わらず合理的だ。だがその合理性が、今は頼もしい。


 小さな穴が開いた。穴が一つ開けば、光が通る。光が通れば、壁は崩れる。


 ナギは暴徒だった人々を見渡した。石を置いた百人の人間。彼らはまだ完全には理解していないだろう。魔物との共存が何を意味するのか。千年の歴史がどう変わるのか。だが今夜、彼らは一つのことを知った。目の前の小さな緑の老人が、自分たちと同じように泣き、笑い、手を差し出す存在だということを。

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