分かたれた血
「ナギ! 城門だ!」
マルコが駆け込んできた。息が切れている。朝靄がまだ残る早朝。暴動から三日が過ぎた。人魔会議の最終日を明日に控えた朝だった。
ナギは兵舎を飛び出した。セリアとトルクが後を追った。大通りを走り、城門に向かった。
城門の前に人だかりができていた。見張り兵が槍を構えている。だが攻撃はしていない。困惑した顔で、城門の外を見つめている。
ナギは人だかりをかき分けた。城門の外に出た。
グリムが立っていた。
満身創痍だった。外套は破れ、左腕を吊っていた。顔に新しい傷がある。唇は乾き、目の下に深い隈が刻まれていた。馬で十日の距離を、七日で帰ってきた顔だ。
だがグリムは笑っていた。皮肉ではない笑顔で。
「連れてきた」
グリムの背後に三つの影があった。
白髪の老人たち。痩せた体。厳しい目。首に牙の紋章の首飾りを提げている。三人とも七十を超えている。最も年老いた男は八十を超えているだろう。白い長髪が朝風に揺れていた。
牙の長老衆。千年間、分断を守り続けてきた者たち。
最長老がナギを見た。疲れた目。だがその奥に、鋭い知性が光っている。
「お前が架け橋の末裔か」
声は低く、枯れていた。千年の重みを背負った声だ。
ナギは頷いた。
「あなたたちは、魔王ザルグの弟の末裔だ」
最長老の目が細まった。隣の長老が身じろぎした。三人目の長老が杖を握り直した。
「ここでは話せぬ。中に入れてもらえるか」
ナギは将軍に連絡を取った。将軍は即座に許可を出した。牙の長老衆は兵舎の一室に通された。
* * *
部屋には蝋燭が灯されていた。窓は閉じている。長老衆は三人並んで座った。ナギは向かいに座った。グリムが壁にもたれた。セリアが扉の近くに立ち、トルクが廊下を見張った。
最長老が口を開いた。
「千年間、我らは分断を守ってきた。それが正しいと信じて」
声に力はなかった。千年の使命を語りながら、その言葉自体が疲弊していた。
「ダリウスは我らの中で最も優秀な工作員だった。だが同時に、最も危険な男でもあった。奴は使命を超えて、己の権力を求め始めていた。我らの手を離れた」
隣の長老が続けた。
「グリムが来た時、我らは殺そうとした。裏切り者だと思った。だがグリムは武器を持たずに来た。手ぶらで、一人で。そして言った。『千年間、俺たちは間違えていた。架け橋の末裔が、もう一度橋を架けようとしている。見に来てくれ』と」
三人目の長老が杖を床に突いた。
「見に来た。ただそれだけだ。和解を約束したわけではない。まだ信じていない」
ナギは頷いた。焦らない。交渉者は相手の速度に合わせる。辺境で学んだ原則だ。
「わかりました。では一つだけ聞かせてください」
最長老がナギを見た。
「千年の間に、疑ったことはなかったですか。分断が本当に正しいのかと」
蝋燭の炎だけが揺れた。三人の老人の顔に影が踊った。
最長老が目を閉じた。長い沈黙の後、声が震えた。
「何度も。何度も疑った。だが使命を捨てることは、祖先を捨てることだった。我らの祖先は兄を殺した。その罪を背負い、分断を守ることで、自分たちを罰していた。千年間ずっと」
目を開いた。涙が滲んでいた。八十二年の人生で、この老人が何度泣いたのか。おそらくほとんどない。使命に縛られた人生に、泣く余裕などなかったのだろう。
ナギは立ち上がった。根源的魔物語で語りかけた。全ての魔物が理解できる、原初の言語。だが今は魔物に向けてではない。架け橋の血を引く者に向けて。
【聞こえるか。この声が。あなたたちにも、架け橋の血が流れている】
長老衆の三人が同時に体を震わせた。
最長老が目を見開いた。椅子の肘掛けを掴んだ。白い指が震えている。
「聞こえる。微かだが、聞こえる。温かい声が」
隣の長老が胸を押さえた。
「これは何だ。体の奥が震える。胸の中で何かが共鳴している」
三人目の長老が杖を落とした。拾わなかった。両手で顔を覆った。
「千年前に封じた声が、蘇った。我が血の中で、ずっと眠っていた声が」
グリムが壁から背を離した。グリムも聞こえている。あの夜、ナギと握手を交わした時に目覚めた感覚が、今も胸の中で脈打っている。
ナギは語り続けた。根源的魔物語で。
【あなたたちの祖先は、兄を殺した。それは事実です。だが兄は弟を恨んでいなかった。ザルグの遺言は『力で橋を架けるな。言葉で架けろ』だった。弟への恨みではなく、未来への願いだった】
最長老の頬を涙が伝った。八十二年分の涙だ。使命の重圧から、初めて解放される涙だ。
「架け橋よ。我らは、千年かけても兄の罪を償えなかった」
ナギは首を振った。
「罰はもう十分です。千年分の罰は、千年分の苦しみだったでしょう。ザルグは罰を望んでいなかった。共存を望んでいた。あなたたちが分断を守る間も、ザルグの願いはずっと生きていた。俺の中で。グリムの中で。そしてあなたたちの血の中で」
最長老がナギの手を取った。皺だらけの手。冷たかった。だがナギの手を握った瞬間、少しだけ温かくなった。
「明日、人魔会議があります。あなたたちも来てください。牙の一族として。架け橋の血を引く者として。千年前に折れた橋を、一緒に架け直しましょう」
長老衆は顔を見合わせた。三人の目が交わった。千年間の使命。千年間の苦しみ。千年間の疑い。全てが今、答えを求めている。
最長老が頷いた。
「行こう。見届けよう。千年の終わりを」
隣の長老も頷いた。三人目の長老が床に落ちた杖を拾い、立ち上がった。
* * *
部屋を出た後、リーナが長老衆の前に進み出た。辺境からヴェルクと共に王都に来ていた。手に小さな瓶を持っている。
「長老の方々。これを見てください」
透明な液体。蟲が分泌する酵素を精製したものだ。
「牙の商団が戦闘用に開発した蟲の品種改良技術を、医療に転用しました。傷口に塗れば治癒速度が三倍になります。あなたたちの技術は、人間にも魔物にも役立つものに変えられます」
三人目の長老が瓶を手に取った。光に透かした。手が震えていた。
「壊すための技術が、救うために使えるのか」
リーナが頷いた。
「技術に善悪はありません。使い方を変えればいい。千年間、分断のために使った知恵を、共存のために使えばいい」
最長老が静かに言った。
「千年間、我らは壊してきた。橋を。信頼を。歴史の真実を。壊すことしか知らなかった。だが壊す力は、直す力でもある。そうか。そうだったのか」
グリムがナギの隣に立った。小声で言った。
「泣くかと思った。長老衆が泣くところなんて、俺も初めて見た」
「お前も泣いただろう。あの夜」
「覚えてないな」
「覚えてるだろ」
グリムが苦笑した。ナギも笑った。
セリアが廊下で待っていた。ナギが出てくると、目を合わせた。
「うまくいった?」
「明日、来てくれる」
セリアが微笑んだ。
「あんたって本当に、交渉だけは天才ね」
「だけは余計だ」
明日。全てが決まる。千年の分断に終止符を打つ条約が、大講堂で読み上げられる。六族と人間。そして牙の一族。全ての当事者が揃った。




