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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
共存の地図

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架け橋の血

「グリム。お前は架け橋の血を引いているのか」


 人魔会議の準備が本格化する中、ナギはグリムと向き合った。兵舎の小部屋。蝋燭一本の灯り。窓の外は暗い。グリムが長老衆のもとへ旅立つ前夜の話だ。


 掃除屋の拠点から押収された文書で、牙の一族が架け橋の血を引いていることは確認された。だがグリム自身はどうなのか。ナギは直接確かめたかった。


 グリムは長い沈黙の後、答えた。


 「わからない。牙の一族は千年の間に何度も枝分かれした。全員が魔王の弟の直系というわけじゃない」


 グリムは壁にもたれた。いつもの姿勢だ。だが今夜は目を閉じなかった。ナギを見ていた。


 「だが一族の中には、稀に魔物の声が聞こえる者が生まれる。俺も聞こえた。幼い頃、蟲の声が」


 「蟲の声」


 「正確には声じゃない。感覚だ。蟲が何を考えているか、何を求めているか、体で感じた。暗い場所が好きだとか、湿った空気が落ち着くとか、そういう些細なことだ。だから蟲を体内に入れることができた。他の掃除屋は蟲を力で押さえつけている。蟲が暴れれば薬で抑え込む。俺は対話で共存している。蟲が嫌がることはしない。蟲が求めるものを与える。そこが違った」


 グリムは自分の腕を見た。蟲は既に抜けている。地下水路でナギの根源的魔物語を聞いた時に、グリムの蟲も自由を選んだ。今のグリムの体内に蟲はいない。


 「蟲がいなくなって、体が軽い。だが同時に寂しい。10年以上一緒にいたからな」


 「蟲はお前の仲間だったんだな」


 「仲間か。考えたこともなかった。道具だと思っていた。だが、別れてみると違った」


 ナギは根源的魔物語で語りかけた。普通の魔物語ではない。全ての魔物が理解できる、原初の言語。


【聞こえるか。この声が】


 グリムの目が見開かれた。椅子から立ち上がりかけた。体が震えていた。


 「聞こえる。全部はわからないが。お前の声が、暖かく聞こえる」


 ナギは驚かなかった。予想していた。グリムが蟲と共生できるのは、架け橋の血が流れているからだ。不完全な形の魔物語。だが確かに、血の中に眠っている。


 「グリム。お前は敵じゃない。架け橋の血を引く者同士だ」


 グリムの顔が歪んだ。笑おうとしたのか、泣こうとしたのか、自分でもわからない表情だった。


 「千年前に兄弟が殺し合って始まった戦いを、ここで終わらせようって言うのか」


 「ああ」


 「お前は本当に甘い。甘すぎる。千年の恨みを、言葉一つで終わらせられるわけが」


 ナギは手を差し出した。


 「言葉一つじゃない。手も差し出す。足も運ぶ。心も開く。全部使って橋を架ける。それが俺の仕事だ」


 グリムは差し出された手を見つめた。長い時間。蝋燭の灯りが揺れ、グリムの痩せた顔に影が落ちた。


 目から涙が流れた。


 ナギは初めて見た。この男の涙を。


 牙の商団で生き延びるために感情を殺してきた男。裏切りと暗殺が日常だった男。人を信じることを忘れた男。


 その目から、涙が一筋。


 グリムがナギの手を取った。手が震えていた。だが握る力は強かった。


 「俺は千年間、壊す側にいた。今度は架ける側に立ちたい」


 ナギはグリムの手を握り返した。二つの掌の温度が混ざった。千年分の距離が、一つの握手で縮まった。


 グリムが鼻をすすった。


 「泣いたのは10年ぶりだ。最後に泣いたのは、初めて蟲を体内に入れた時だった。痛くて泣いた。今は痛くない。なのに涙が止まらない。どういうことだ」


 ナギは答えた。


 「痛みの涙と、解放の涙は違う。お前は今、千年分の重荷を下ろしたんだ」


 グリムは目を拭った。そして笑った。初めて見る、皮肉ではない笑顔だった。


* * *


 翌朝。グリムが王都を発った。


 牙の長老衆の隠れ里は王都から北東に馬で5日の山中にあると、グリムは言った。秘密の道がある。一族の者だけが知る道だ。


 ナギは城門まで見送った。セリアとトルクとゴルドも一緒だった。


 朝日が城門の石を照らしていた。市場の方から、早朝の喧騒が微かに聞こえる。ゴルドの薬草治療のおかげで、市場の空気は以前より柔らかくなっていた。


 グリムは馬に跨がった。以前の黒い外套は脱いでいた。代わりに、ヴェルクが送ってきた里の防衛隊の外套を着ていた。橋守の里の紋章がついている。


 「似合わないな」


 トルクが言った。グリムが口の端を上げた。


 「ああ。だが嫌いじゃない」


 セリアが声をかけた。


 「生きて帰ってきなさいよ。ゴルドの薬草で治せない怪我はしないでよ」


 ゴルドが胸を叩いた。


【グリムよ。お前が帰ってきたら、ワシが一番良い薬草で迎えてやる。約束じゃ】


 ナギが通訳した。グリムの目が潤んだ。だが涙は流さなかった。昨夜で十分だ。


 「ナギ。長老衆は話を聞く。架け橋の血を引く者が和解の使者として来れば、少なくとも話は聞く。それが千年前からの掟だ」


 「わかった。待っている」


 「だが和解に応じるかどうかは別だ。千年の使命は重い。長老衆にとっては、使命を捨てることは祖先を捨てることだ。祖先への忠誠で繋がっている一族だからな」


 「祖先を捨てる必要はない。祖先が間違えたことを認め、別の道を選ぶだけだ。祖先を否定するのではなく、祖先が本当にやりたかったことを見つけるんだ。弟がザルグを裏切ったのは、恐怖からだ。魔物との共存が恐ろしかったからだ。その恐怖を理解した上で、恐怖を超える道を示す」


 グリムは黙って頷いた。馬の腹を蹴った。


 馬が走り出した。王都の大通りを抜け、城門を通り、街道に出た。グリムの背中が小さくなっていく。


 ナギは見送りながら思った。千年前、架け橋の初代ザルグが弟に手を差し伸べていたら。弟がザルグの手を取っていたら。千年の分断は起きなかった。ザルグは魔物との共存を目指し、弟はそれを裏切りと見なした。兄弟の断絶が、大陸全体の断絶になった。


 だが今、弟の末裔が兄の末裔に手を差し伸べに行く。千年遅れた和解。遅すぎることはない。遅すぎたとしても、やらないよりはましだ。ザルグの遺言が胸に響いている。「力で橋を架けるな。言葉で架けろ」。グリムは今、その言葉を実行しに行く。


 セリアがナギの袖を引いた。


 「帰ってくるよ。あいつは強い」


 「ああ。知ってる」


 ゴルドが足元で呟いた。


【あの男の目は変わった。壊す目から、架ける目に。声比べなら、もうワシと互角じゃ】


 ナギは笑った。そして兵舎に戻った。人魔会議まで残り一週間。準備は山ほどある。


 共存条約の草案。六族の席順。通訳の段取り。人間側の出席者の選定。王への追加報告。将軍との連携。貧民街でのゴルドの継続的な活動。市場での交流の拡大。


 一つずつ片付ける。グリムが戻ってくるまでに、会議の場を完璧に整える。それがナギの仕事だ。


 橋を架ける者は、橋の両端を同時に見なければならない。人間の側と魔物の側。王都と辺境。過去と未来。そしてナギは今、もう一つの端を見ていた。牙の一族という、千年間見えなかった端を。


 ゴルドが貧民街から戻ってきた。薬草の匂いをさせながら、小さな足で兵舎の廊下を歩いている。


【今日は十二人治したぞ。子供が五人、大人が七人じゃ。明日はもっと来ると言っておった。噂が広がっておるんじゃな】


 ナギが通訳するまでもなく、ゴルドの嬉しそうな声は表情で伝わった。セリアがゴルドに水を差し出した。ゴルドが大きな耳を揺らして飲んだ。

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