辺境の盾
「来たぞ」
ヴェルクが森の木々の間から、土煙を上げて近づく影を見つめた。橋守の里の見張り台。朝靄が晴れた辺境の空は広い。
傭兵の群れだった。百人。武装した男たちが街道を二列で進んでいる。先頭の男が旗を掲げていた。傭兵団の紋章。だがヴェルクの目は旗の裏側に縫い付けられた小さな布を見逃さなかった。牙の紋章。
ダリウスが送った別動隊。ナギが王都で人魔会議の準備をしている間に、里を潰すつもりだ。
ヴェルクは見張り台を降りた。里の広場には、残留戦力が集まっていた。ゴブリンの若手三十人。オークの若手戦士十人。森狼族の偵察班八頭。深淵蟲の守備部隊二十匹。そして人間はヴェルクとリーナの二人だけだ。
ボルガがいない。ファングの本隊がいない。群体知性は小分けの分体しかいない。主力が王都に向かっている今、里の戦力は半分以下だ。
だがヴェルクは元斥候隊長だ。正面から百人の傭兵に当たるなど考えない。
「全員聞け。傭兵が百人、東の街道から接近中だ。正面衝突は避ける。森で迎え撃つ」
ゴブリンの若手が叫んだ。
【地下通路を使う?】
ヴェルクが頷いた。ゴルドが里に掘らせた地下通路だ。里の周囲を蜘蛛の巣のように走っている。ゴブリンの小さな体なら自由に行き来できる。
「ゴブリンは地下通路を使って敵の背後に回れ。合図は仔狼の遠吠えだ。オークは砦の門の前に壁を作れ。ボルガが作った防壁を活用する。出入口は一つだけ開けておけ」
オークの若い戦士が牙を剥いた。
【壁の向こうで待ち構える。来る者は打つ】
「殺すな。追い返すだけでいい。ナギの方針を守れ。殺せば戦争になる。追い返せば防衛として認められる。ここが肝心だ」
森狼族の偵察班が耳を立てた。ヴェルクは仔狼を介して指示を出した。
【敵の補給線を嗅ぎ分けろ。食料と水の運搬隊を特定する。断てば三日で撤退する】
深淵蟲の守備部隊が地面の下から触角を伸ばした。リーナが通訳した。
「蟲たちは地中に罠を掘ると言っています。落とし穴ではなく、足元を柔らかくして進軍速度を落とす程度のものです」
ヴェルクは頷いた。殺さない。追い返す。ナギが辺境で確立した戦い方だ。
* * *
傭兵が里の外縁に到達したのは正午過ぎだった。
森の中に入った瞬間、傭兵たちの足が沈んだ。深淵蟲が地中を柔らかくしていた。膝まで泥に埋まる者が続出した。
「何だこれは。沼地か?」
「違う。昨日まで固い土だったはずだ」
傭兵隊長が叫んだ。
「構うな。進め。抜けろ。目標は砦だ」
傭兵たちは泥を踏み抜きながら前進した。だが速度が落ちている。装備が重い。足が沈む。一人が倒れ、二人が助け起こし、三人分の時間が無駄になる。
ヴェルクは見張り台から双眼で観察していた。計算通りだ。百人の傭兵が泥に足を取られ、隊列が崩れている。まとまった突撃は不可能になった。
森を抜けると、砦の門が見えた。だが門の前には、オークの若手戦士が壁のように立ちはだかっていた。灰褐色の肌。突き出た牙。腕は丸太のように太い。
傭兵たちが足を止めた。
「オークだと。聞いてないぞ」
「ただの魔物の集落だと聞いていたのに」
ヴェルクが門の上に立った。かつて斥候隊長として何度も行軍を指揮した男。声が通る。
「お前たちが聞いた話は嘘だ。ここは人間と魔物が共に守る里だ。雇い主はダリウスか。あの男はもうすぐ失脚する。戻って別の雇い主を探すことを勧める」
傭兵隊長が剣を抜いた。
「金をもらった。仕事は仕事だ」
傭兵が突撃した。だが三歩進んだところで、背後から遠吠えが響いた。
森狼族の偵察班が背後に回っていた。八頭の狼が森の影から姿を現し、傭兵の退路を塞いだ。牙を剥き、低く唸っている。
同時に、足元の地面からゴブリンの若手が這い出てきた。地下通路の出口。小さな体が傭兵の足の間を走り回り、靴紐を切り、腰の荷物を引き抜いた。
「な、何だ。足元に。小さいのが」
「荷物が。食料袋が消えた」
混乱が広がった。傭兵百人が、六族の連携に翻弄されている。
ヴェルクが号令をかけた。
「オーク、押せ」
オークの若手が盾を構えて前進した。傭兵を物理的に押し返す。殺さない。押し返すだけだ。
傭兵隊長が叫んだ。
「撤退だ。こんな話じゃなかった。ただの魔物の集落だと聞いていたのに」
傭兵が森に退いた。だが森では森狼族が待っている。補給線は寸断されている。食料はゴブリンに盗まれた。三方を塞がれた傭兵は、唯一残された街道を走って逃げた。
一人の死者も出さなかった。人間も、魔物も。傭兵の側にも死者はいない。泥に足を取られた捻挫と、オークに押し返された打撲だけだ。
ヴェルクは門の上から傭兵の背中を見送った。百人の武装した男たちが、尻尾を巻いて逃げていく。ナギが作った里の防衛力に、プロの傭兵が敗走した。
ゴブリンの若手が歓声を上げた。地下通路から次々と這い出てきて、戦利品の食料袋を掲げている。
【勝ったぞ! 声比べなら、ワシらの勝ちじゃ!】
ゴルドの口癖がゴブリンの若手に移っていた。ヴェルクは唇の端だけ動かした。
* * *
里は守られた。
リーナが蟲の医療技術を応用し、負傷した味方を治療した。オークの若手が軽い切り傷を負っただけで、重傷者はいない。
ヴェルクは撤退した傭兵の中から、一人を捕まえて情報を得た。
「ダリウスは王都にもう一つの手を打っている。人魔会議の当日、掃除屋を使って会議場を襲撃し、『魔物が暴走した』と見せかける計画だ」
傭兵は懐から書簡を出した。命令書だ。ダリウスの署名と軍務省の封蝋が押された公式文書。具体的な日時と手順が書かれている。「人魔会議の開始と同時に、掃除屋十名が会議場に突入。混乱に乗じて魔物の代表を殺害。魔物が暴走したと見せかけ、軍に鎮圧を命じる」。
証拠。ダリウスの計画の書面。
ヴェルクは仔狼を呼んだ。王都への連絡網を使う。
「ナギに伝えろ。里は無事だ。傭兵は撤退した。そしてダリウスの襲撃計画の書面証拠を入手した。六族の代表と一緒に、この証拠を王都に届ける」
仔狼が走り出した。辺境の森を抜け、街道を駆ける。灰色の影が朝日の中を走っていく。七日で王都に届く。
リーナがヴェルクの隣に立った。
「ヴェルクさん。里が守れてよかったですね」
ヴェルクは里を見渡した。ゴブリンの子供が走り回っている。オークの若手が互いの肩を叩いて笑っている。森狼族が遠吠えで勝利を告げている。深淵蟲が静かに地中に戻っていく。
かつてナギを追放した場所から、ナギが作った里を守った。皮肉だ。だが後悔はしていない。
「ナギは王都で勝て。俺はここで借りを返した」
リーナは何も言わなかった。ただ頷いた。ヴェルクの背中が、少し広くなったように見えた。
あの日、ヴェルクはナギに問うた。「お前は人間の味方なのか、魔物の味方なのか」と。今なら答えがわかる。ナギは両方の味方だった。だからこの里がある。だからヴェルクはここに立っている。
ヴェルクの声は静かだった。だがその目には、かつて斥候隊長だった頃にはなかった光があった。後悔を超えた先にある、覚悟の光だ。




