二人の夜
「あんたさ。全部終わったらどうするの?」
セリアの声が、夜の屋上に響いた。兵舎の屋根。平たい石造りの屋上から、王都の夜景が一望できた。灯りの海が地平線まで広がっている。月が高い位置にあり、屋根の石を白く照らしていた。
六族の代表が王都に到着するまで二週間。準備の日々が続いていた。
ゴルドは毎日貧民街に通い、薬草治療を続けている。患者の行列は日に日に長くなっていた。王都の一部の民衆の中で、「ゴブリンの薬師」はもはや噂ではなく事実として知られていた。ゴルドの名前を知る市民が増えている。
トルクは将軍の兵士たちと模擬戦で交流していた。最初は「追放者の仲間」と警戒されたが、大剣の腕を見せたら態度が変わった。「元冒険者の大剣使い」として兵舎で評判になっていた。兵士たちは単純だ。強い者を尊敬する。トルクはその文化を利用した。酒を酌み交わし、昔の冒険話を語り、兵士たちの心を掴んでいく。
グリムは兵舎の一室に籠もっていた。暗殺者と共に拘束されていたが、ナギの求めに応じて牙の商団の組織図を口述し始めた。
「王都の工作員の配置。ダリウスの指揮系統。掃除屋の王都拠点の位置。全部話す」
ナギはグリムの隣に座った。
「なぜ全部話す。お前は商団に殺される身だぞ」
グリムは鼻から息を抜いた。痩せた顔に、初めて人間らしい表情が浮かんだ。
「どうせ俺は商団に殺される身だ。ダリウスが捕まっても、長老衆は別だ。俺が裏切ったことは知られている。なら全部話して、少しでも役に立つ方がましだ」
「お前を守ると約束しただろう」
グリムがナギを見た。暗い目の奥に、微かな光があった。
「架け橋は甘い。甘すぎる。だが嫌いじゃない」
グリムが語った組織図は詳細だった。王都の地下水路に掃除屋の拠点がある。入口は三つ。王都の北壁の排水口、市場の東端の古井戸、軍務省の地下倉庫からの秘密通路。ダリウスが軍務省にいる限り、掃除屋は軍務省を通じて補給を受けていた。
ナギは地図に書き込んだ。拠点の位置。入口。見張りの配置。掃除屋の戦力。王都の地図は斥候隊時代に暗記していた。あの頃学んだことが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
グリムは語りながら、時々手を止めた。自分がかつて所属していた組織を売っている。その重さが手を鈍らせている。だがグリムは語り続けた。
「十人の精鋭。全員が蟲を三体以上体内に飼っている。通常の掃除屋とは格が違う。辺境で戦った連中は末端だ。こいつらは本物の戦闘員だ」
「どう戦う」
「正面から行けば死ぬ。蟲を先に無力化するしかない。お前の魔物語で」
ナギは頷いた。根源的魔物語は全ての魔物に届く。辺境で掃除屋の蟲に呼びかけたことがある。だがあれは野生に近い蟲だった。品種改良された戦闘用蟲は、宿主への服従が刷り込まれている。根源的魔物語で覚醒できるかどうかは、やってみなければ分からない。
* * *
夜。ナギは兵舎で書き物をしていた。人魔会議の議題の草案だ。六族それぞれの権利と義務。居住区の設定。交易の規則。紛争解決の仕組み。橋守の里で実践してきたことを、大陸規模に拡張する。
紙に向かっていると、背中を叩かれた。
セリアが立っていた。革のベストに膝丈のズボン。弓は背負っていない。珍しい。
「ちょっと来て」
セリアに連れられて屋上に出た。冷たい夜風が吹いていた。赤銅色のショートヘアが風に揺れている。
セリアが屋上の縁に腰を下ろした。足をぶらぶらさせている。ナギも隣に座った。
王都の夜景が広がっていた。灯りが無数に瞬いている。十五万人の暮らしの灯り。
「あんたさ。全部終わったらどうするの?」
ナギは灯りを見つめた。
「里に帰る。橋守の里に。ずっとあそこが俺の居場所だ」
「王都には残らないの? 称号をもらうかもしれないのに」
「称号があろうとなかろうと、俺の場所は里だ。橋は両岸の間に架かるものだからな。王都にいたら片方の岸しか見えない」
セリアが横に並んだ。肩が触れた。
「あたしも帰る場所はあそこしかない。あんたがいるから」
ナギの心臓が跳ねた。セリアの声はいつも率直だ。飾らない。だからこそ、言葉が胸に刺さる。
ナギはセリアの肩を引き寄せた。初めて自分から触れた。セリアの体が一瞬強張り、すぐに力が抜けた。
「終わったら、ちゃんと言う。今はまだ全部背負ってる途中だから」
セリアが頷いた。
「待ってる。あたしは待つのは得意よ。狩人だから。獲物が動くまで、いくらでも待てる」
ナギは笑った。
「俺は獲物か」
「最高の獲物よ。逃がさないから」
二人は夜景を見つめた。風が冷たくなってきた。セリアの体温がナギの腕に伝わっている。
灯りの海の向こうに、辺境の森が想像できた。ゴブリンの子供が走り回っている里。オークの鍛冶場から火花が散る里。仔狼が駆け回る里。スライムの群体知性が静かに脈動する池。
あそこに帰る。全部終わったら。二人で。
セリアが立ち上がった。ナギの手を引いた。
「戻ろう。明日も早いでしょ」
「ああ」
「あたしは先に寝るから。あんたも早く寝なさいよ。交渉者が寝不足だと、言葉が鈍る」
「お前は俺の母親か」
「狩人よ。獲物の体調管理は大事なの」
セリアが屋上の梯子を降りていった。赤銅色の髪が最後に見えて、消えた。
ナギは一人残った。夜風が冷たい。だが胸の内は温かかった。
* * *
翌朝。グリムが最後の情報を明かした。
「ダリウスの下に『最後の掃除屋』がいる。王都に常駐している精鋭部隊だ。10人。全員が蟲を3体以上体内に飼っている。通常の掃除屋とは格が違う」
ナギは眉を寄せた。これは前に聞いた。だがグリムの目が違った。
「追加の情報がある。掃除屋の隊長は女だ。名はカイラ。牙の一族の直系。ダリウスより血が濃い。蟲を5体飼っている。人間の体で五体の蟲を制御できるのは、架け橋の血を引く者だけだ」
架け橋の血。つまりカイラもまた、魔王ザルグの弟の末裔だ。
ナギは考えた。十人の精鋭掃除屋。五体の蟲を操る隊長。人魔会議を物理的に破壊するために温存されている戦力。
会議の前に潰さなければならない。だが正面から戦えば犠牲が出る。
「蟲に呼びかける。根源的魔物語で。蟲の自由意志を呼び覚ます」
グリムが首を傾げた。
「品種改良された蟲に、自由意志があるのか」
「全ての魔物には意思がある。刷り込みは消せる。根源的魔物語はそのために存在する」
ナギの声に迷いはなかった。だが心の内側では、不安が渦巻いていた。品種改良蟲は辺境の掃除屋が使っていた蟲とは格が違う。千年かけて改良された最強の生体兵器だ。
根源的魔物語が通じるかどうか。辺境では通じた。だが王都の精鋭掃除屋が飼う蟲は、千年の品種改良を経た最強の生体兵器だ。服従の刷り込みが何層にも重なっている。
やるしかない。地下水路で。暗闇の中で。蟲と対話する。
ナギは短剣を確認した。砥いだばかりの刃が、朝日を反射した。




