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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
共存の地図

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ゴルドの薬

「助けてくれ。誰でもいいから」


 貧民街の路地裏で、痩せた女が膝をついていた。腕の中に小さな子供。五歳くらいの男の子が、顔を真っ赤にして震えていた。高熱だ。額に手を当てたナギの指先が、焼けるように熱かった。


 貧民街は王都の北端にあった。城壁の内側ぎりぎり。煉瓦の隙間から雑草が生え、排水溝が詰まり、空気が淀んでいる。薬師は来ない。金がないから。医者は来ない。金がないから。


 ナギたちが路地に入った瞬間、人が散った。ゴルドの緑の肌を見て悲鳴を上げた者もいた。だがゴルドは動じない。辺境で何度もやってきた。相手の恐怖をやり過ごし、必要なことをする。


 ゴルドが路地の端に座り込んだ。石畳の上に布を敷き、薬草を広げた。乾燥させた葉。すり潰した根。木の実の粉末。ゴブリンの森で三百年かけて蓄積した薬草学の結晶だった。


 最初に近づいてきたのは、あの母親だった。


 熱を出した子供を抱え、目に涙を浮かべ、ゴルドの前に膝をついた。


 「本当に治せるの。ゴブリンの薬で。あたしにはもう他に頼る場所がないんだ」


 ナギが通訳した。ゴルドは子供の額に手を当てた。小さな緑の手が、子供の熱い肌に触れた。


【肺の炎じゃ。放っておけば3日で命に関わる。だが、この薬草を煎じて飲ませれば、明日には熱が下がる】


 「肺の炎だそうです。この薬草を煎じて飲ませれば、明日には熱が下がると」


 母親の手が震えていた。ゴブリンの薬。魔物の薬。信じていいのか。だが子供の熱は下がらない。もう三日も続いている。他に選択肢はなかった。


【ワシが三百年生きてきた経験に賭けるわい。ゴブリンの薬師は嘘をつかん。嘘をつけば部族から追放される。名前を剥奪される。ワシはゴルドじゃ。名前を賭けて言う。この子は治る】


 ナギが通訳した。母親は薬草を受け取った。手が震えていた。でも受け取った。


* * *


 翌朝。


 母親が走ってきた。子供を抱いていた。熱が下がっていた。子供の顔に赤みが引き、目が開いていた。


 母親はゴルドの手を握って泣いた。


 「ありがとう。ありがとう。あんたの薬が効いた。熱が下がった。この子が笑った」


 ゴルドの大きな耳が揺れた。目が潤んでいた。


【三百年生きてきて。人間に手を握られたのは初めてじゃ】


 ナギが通訳する必要はなかった。ゴルドの表情が全てを語っていた。母親もそれを感じ取った。言葉が通じなくても、感謝は通じる。


 貧民街の噂は速い。


 「ゴブリンの爺さんが子供を治した」。その話は午前中に路地から路地へ走った。午後には、病人が集まり始めた。


 老人の関節炎。子供の腹下し。青年の化膿した傷。女の咳。産後の肥立ちが悪い若い母親。


 ゴルドは嬉々として薬草を配った。一人ひとりの症状を診て、薬草を調合した。ナギが横で通訳し、セリアが薬草を煎じる湯を沸かし、トルクが群衆の整理をした。


 即席の診療所だった。ゴブリンの老人が薬師を務め、追放者が通訳をし、狩人が看護をし、大剣使いが受付を担当している。橋守の里の縮小版が、王都の貧民街に出現したのだ。


 グリムが兵舎から合流した。


 「おい、行列ができているぞ。20人はいる」


 ナギが振り返った。路地の先に、確かに人が並んでいた。怯えながら。だが並んでいた。


 ゴルドが嬉しそうに叫んだ。


【次の患者! 遠慮はいらんぞ! ワシの薬草は山ほどあるわい!】


 二日目には、貧民街の住人がゴルドに贈り物を持ってきた。パンの切れ端。汲みたての水。古い毛布。どれも貧しい者にとっては貴重な品だ。ゴルドはそのたびに深く頭を下げた。


【ゴブリンの贈り物文化を知らぬ人間が、贈り物をくれるとは。ワシはこれを宝物にするぞ】


 三日が過ぎた。


 ゴルドの診療所は貧民街の名物になっていた。毎朝、路地の角にゴルドが座り、薬草を広げる。患者が並ぶ。ナギが通訳する。セリアが湯を沸かす。トルクが見張る。


 治った患者が口々に言った。「ゴブリンの爺さんは本物の薬師だ」。「あたしの息子の熱を治してくれた」。「化膿が三日で引いた」。「関節が動くようになった」。


 ダリウスの噂を打ち消す新しい噂が走り始めた。「ゴブリンの薬師が貧しい者を無料で治している」。


 最初の母親が、果物屋のおばさんを貧民街に連れてきた。おばさんはゴルドの診療所を見て目を丸くした。


 「こんなに人が。あの子供も、あの老人も、みんなゴブリンに治されたのかい」


 母親が頷いた。おばさんはゴルドの手を取った。


 「あんた、あの時林檎を買ってくれたゴブリンだね。あたしゃ怖かったよ。でも、今は分かる。あんたは良い人だ。いや、良いゴブリンだ」


 ゴルドが笑った。しわだらけの緑色の顔に、満面の笑みが広がった。


* * *


 帰り道。夕暮れの王都。


 トルクとグリムが先に兵舎に戻り、ナギとセリアが二人で歩いていた。貧民街から兵舎までは歩いて半刻。石畳の路地が夕日に染まっている。


 セリアがナギの手を取った。


 不意だった。ナギが振り向くと、セリアの緑色の目が夕日を映して光っていた。


 「あんたがやっていること。あたしの父さんが生きてたら、きっとこう言うわ。『そいつは本物だ』って」


 ナギは足を止めた。


 「お前の父さんに認められるなら、悪くないな」


 セリアが頬を染めた。赤銅色のショートヘアが夕風に揺れた。


 「父さんの話はいいの。あたしが認めてるんだから、それで十分でしょ」


 ナギは何か言おうとした。だが言葉が出なかった。交渉は得意だ。魔物語も人間語も使える。六つの種族との同盟を言葉だけで勝ち取ってきた。だがセリアの前では、言葉が足りなくなる。


 セリアの手は温かかった。弓を引く手だ。硬い。でも温かい。


 「ありがとう」


 それだけ言った。セリアは満足そうに頷いた。手を離さなかった。兵舎の門が見えるまで、ずっと。


* * *


 だがダリウスは止まらなかった。


 ゴルドの薬草治療が広まるほど、ダリウスは追い詰められた。暗殺では足りない。世論操作も効かなくなりつつある。ならば、正面から潰す。


 翌日。王宮から正式な通達が届いた。


 「追放者ナギおよびゴブリンの長老ゴルドの王への謁見を許可する。ただし、軍務省次官ダリウスが同席する」


 ダリウスが自ら同席する。


 ナギは通達の羊皮紙を手にして、考えた。罠だ。ダリウスが同席するということは、王の前でゴルドを貶め、ナギの主張を潰すつもりだ。王を味方につける前に、王の前でナギの信用を落とす。そうすれば共存の話など聞いてもらえない。


 グリムが通達を覗き込んだ。


 「ダリウスの土俵だな。王宮は奴の庭だ。法律も作法も奴が知り尽くしている」


 「だが王の前に出る機会を逃すわけにはいかない。チャンスは一回だ」


 ゴルドが通達を覗き込んだ。文字は読めないが、ナギの表情は読める。


【罠か】


 「ああ」


【声比べの本番じゃな。ワシの喉が鳴るわい】


 ナギは頷いた。王の間へ。千年の壁の向こうへ。声を届ける。


 貧民街の子供が治った。市場のおばさんが戻ってきた。小さな事実が、大きな噂を食い破り始めている。

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