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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
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噂の毒

「予想の範囲内だ」


 ダリウスは暗殺失敗の報告を受けても、表情を変えなかった。


 軍務省次官の執務室は王宮の東翼にあった。窓から差し込む朝日が、机の上の書類を斜めに照らしている。ダリウスは四十代の痩せた男だった。整えられた黒髪。冷たい灰色の目。袖の裏には牙の紋章の腕輪が隠されている。


 「暗殺者三人が捕縛。将軍が独自に拘束しました。軍務省への報告はありません」


 「将軍が隠したか。面白い」


 ダリウスはペンを取った。白い紙に、細い文字で何かを書き始めた。


 「将軍は動きが遅い。だが動き出せば厄介だ。先に世論を固める」


 部下が頷いた。


 「噂を流せ。三つ」


 ダリウスの指が紙の上を走った。


 「一つ。追放者ナギは魔物を使って王を操ろうとしている。二つ。ゴブリンの老人は呪術師で、近づいた者は呪われる。三つ。市場でゴブリンに物を売った者は、魔物の手先と見なされる」


 三つ目が最も悪質だった。ゴルドと交流した市民を狙い撃ちにしている。


* * *


 噂は半日で王都中に広がった。


 昨日、ゴルドに林檎を売った果物屋のおばさんの店に、朝から嫌がらせが始まった。


 露台に腐った卵が投げつけられた。林檎が地面に転がされた。壁に墨で「裏切り者」と書かれた。「魔物に物を売った女」。常連客が来なくなった。隣の店が目を合わせなくなった。たった一日で、おばさんは市場の孤立者になった。


 マルコが報告を持ってきた。ナギは拳を握った。


 「おばさんの店は」


 「閉めた。家に閉じこもっている。近所の人間も遠巻きにしている」


 セリアが唇を噛んだ。


 「あたしたちのせいだ。あのおばさんは、ゴルドに林檎を売っただけなのに」


 ゴルドが窓辺に座っていた。小さな手が膝の上で握られている。


【ワシのせいじゃ。ワシが市場に出たから、あの女が標的にされた】


 ナギは目を閉じた。


 「違う。標的にしたのはダリウスだ。俺たちが市場で作った繋がりを、噂で潰そうとしている」


 グリムが壁から声を出した。


 「ダリウスの手口だ。直接手を汚さない。噂という武器は安くて効果的で、証拠が残らない。千年間、牙の商団はこの手で世論を操ってきた」


 トルクが大剣の手入れをしながら言った。


 「噂を噂で消すことはできるか」


 「できない」


 ナギが即答した。


 「噂を打ち消すには、噂以上の事実が必要だ。人の口は止められない。だが目の前の事実は否定できない」


 ナギは窓から王都を見下ろした。煉瓦の屋根が朝日に照らされている。どこかで子供の泣き声がした。どこかで犬が吠えた。十五万の人間が暮らす街。その大半がゴブリンを見たことがない。見たことがないものを恐れている。


 噂の構造はこうだ。ダリウスが流す嘘は「魔物は危険だ」という人間の根源的な恐怖に乗っかっている。恐怖が先にある限り、嘘は真実に見える。恐怖を消すには、目の前で「魔物は危険ではない」と証明するしかない。


 「見せるしかない。聞かせるしかない。触れさせるしかない」


 セリアが振り返った。


 「どうやって」


 「王都で一番困っている人間のところに行く」


* * *


 場面は将軍の執務室に移る。


 将軍は暗殺者の尋問を副官に任せ、自ら軍務省の人事記録を調べていた。ダリウスの推薦で配属された兵士。過去五年間の異動記録。昇進の経路。


 副官が報告を持ってきた。


 「将軍。確認できた者だけで、八人です」


 「8人」


 「事務官が3人。下級将校が2人。兵站担当が2人。そして情報部の書記官が1人。全員がダリウスの推薦か、ダリウスの前任者の推薦で配属されています」


 将軍の拳が机を叩いた。


 「儂の目の前で。情報が操作されていた」


 副官が追加の書類を広げた。


 「将軍。さらに重大な案件があります」


 副官が別の書類を取り出した。黄ばんだ紙。三年前の日付。


 「辺境斥候隊のヴェルク隊長が送った報告書です。『辺境の魔物の動向に異常あり。殲滅ではなく調査を要請する』という内容でした。この報告書は軍務省で受理されましたが、将軍のお手元には届いていません」


 将軍の目が据わった。


 「握り潰されたのか」


 「情報部の書記官が処理しています。ダリウスの推薦で配属された書記官です」


 三年前。ヴェルクの報告が届いていれば、ナギの追放は避けられたかもしれない。辺境の魔物問題は別の形で解決できたかもしれない。


 将軍は窓の外を見た。鷹のような目が、軍務省の建物を睨んでいた。


 「ダリウスは何年かけて軍務省を蝕んだ」


 「少なくとも10年です。前任の軍務省次官の時代から工作員の配置が始まっています」


 十年。計画的に。着実に。国家の中枢を内側から腐らせる。将軍はこれまでの人生で何度も「軍の判断」を信じてきた。報告書に基づいて命令を出し、部下の忠誠を疑わなかった。その信頼の全てが裏切られていた。


 将軍は副官を見た。


 「追加調査だ。軍務省だけではない。内務省と財務省にも目を向けろ。牙の紋章を持つ者が他にもいるかもしれん」


 副官が敬礼して退室した。


 将軍は一人になり、暗殺者から押収した牙の紋章を手に取った。二本の牙が交差した意匠。千年の歴史を持つ組織の印。


 「儂は軍人だ。国を守るのが仕事だ。だが、敵が内側にいたとは」


 将軍は紋章を机に置いた。鷹の目が鋭く光った。


 辺境であの追放者が言っていた言葉を思い出した。「俺は交渉に来た」と。あの時は信用しなかった。だが今なら分かる。交渉すべき相手は魔物ではなく、自分たちの足元にいた。


* * *


 ナギは兵舎に戻り、ゴルドに問うた。


 「ゴルド。王都の貧民街に病人がいる。お前のゴブリンの薬草学で、人間の病気を治せるか」


 ゴルドが目を光らせた。骨飾りが揺れた。


【薬草のことならワシに任せい。リーナの師はワシじゃぞ。人間の病気も大体はわかる。熱、咳、腹下し、化膿。森の薬草が効かぬ病は少ない】


 「お前の知識を、王都の人間に見せる。噂を消す最善の方法は、事実を作ることだ」


 ゴルドが椅子から飛び降りた。背中の傷が痛むはずだが、顔には笑みが浮かんでいた。


【面白い。人間を治すゴブリンか。三百年生きてきたが、そんなことは初めてじゃ】


 セリアが弓を背負った。


 「あたしも行く。貧民街は治安が悪い。護衛がいる」


 トルクが大剣を持ち上げた。


 「俺もだ。ゴブリンの爺さんが王都で薬を配るなんて、見届けないと信じられねえ」


 ナギは仲間を見渡した。暗殺未遂の翌朝だ。全員の目に疲れはあるが、怯えはない。辺境で六族と共に戦ってきた仲間だ。王都の噂ぐらいで折れるような柔な心は持っていない。


 ナギは心の中で整理した。ダリウスの武器は三つ。法律。暗殺。世論操作。暗殺は将軍が防いだ。法律は将軍の調査が進めば崩せる。残るは世論だ。


 噂を事実で上書きする。それが交渉者の戦い方だ。


 貧民街で一番困っている人間を助ける。ゴブリンの薬草学で病人を治す。ダリウスの噂を「魔物は恐ろしい」から「魔物は役に立つ」に書き換える。

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