夜の刃
唸り声で目が覚めた。
低く、短い。仔狼の警戒音。ナギが密かに王都に連れ込んだファングの群れの仔だ。兵舎の隅で丸くなっていたはずの小さな灰色の体が、毛を逆立てて扉を睨んでいた。
ナギは反射的に体を起こした。暗闇。月明かりが窓から細く差し込んでいる。隣のベッドでトルクが眠っている。いや、眠っていない。目を閉じたまま、大剣の柄に手を置いている。
ナギは手信号を送った。二本指で扉を指す。トルクが無言で頷いた。
足音が聞こえた。三つ。兵舎の廊下を、布を巻いた靴で忍び歩いている。音を消しているつもりだろうが、仔狼の耳は誤魔化せない。
ゴルドの部屋は隣だ。
ナギは短剣を抜き、裸足で床を踏んだ。トルクが大剣を引き抜く微かな金属音。セリアがベッドから転がるように起き上がり、弓を掴んだ。
扉が開いた。ゴルドの部屋の扉が。
ナギが飛び出した。
廊下は暗かった。松明は消されている。意図的に。見張りの兵士も姿がない。全て仕組まれていた。
ゴルドの部屋に影が三つ。黒い外套。顔を布で覆っている。一人がゴルドの寝台に身を屈め、短剣を突き立てようとしていた。
「動くな!」
ナギの声が兵舎を割った。同時にトルクが壁を蹴った。大剣の腹が最も近い暗殺者の胴を打ち、男が壁に叩きつけられた。
二人目が振り返った。手に短剣。刃が緑色に濡れている。毒だ。
セリアの矢が飛んだ。弦の音。矢は暗殺者の手首を射抜いた。短剣が床に落ち、からりと音を立てた。
三人目がゴルドの喉元に刃を突きつけたまま叫んだ。
「近づくな! こいつを殺すぞ!」
ゴルドが目を開けた。背中に浅い切り傷。枕に血が滲んでいる。だがゴルドの目は冷静だった。三百年を生きた老人は、命の危機に慣れている。
【ナギ。この男の手が震えておる。殺す覚悟がない。素人じゃ】
ナギは魔物語を聞き取り、一歩前に出た。
「お前の手が震えている。プロの暗殺者じゃないな。雇われたか」
男の目が揺れた。布の下で唇が震えている。
「黙れ。こいつは化け物だ。化け物を殺すのは正しいことだ」
「正しいかどうかは、お前が決めることじゃない」
ナギがもう一歩踏み出した。短剣の切っ先とゴルドの喉の間は、指二本分。
「その短剣の柄を見ろ。牙の紋章が彫ってあるだろう。お前はどこから受け取った」
男の手がさらに震えた。ナギは止まらなかった。
「お前は兵士だな。軍務省から異動で配置された。ダリウスの命令でここにいる」
グリムの情報だった。昨夜、グリムが兵舎の兵士の顔ぶれを確認し、三人の怪しい者を報告していた。だから仔狼を廊下に配置した。
男の刃が、わずかに下がった。その瞬間。
ゴルドが動いた。小さな体が寝台から転がり、男の足元をすり抜けた。ゴブリンの俊敏さは人間の目では追えない。百十センチの体は小さいが、それは隙間をすり抜けるのに最適な大きさでもある。三百年の経験が教える、一瞬の判断。
トルクの大剣の柄が男の顎を打った。男が崩れ落ちた。
* * *
三人を縛り上げた。
一人が舌を噛もうとした。ナギが制した。顎を押さえ、口の中に布を詰めた。
「死ぬな。お前たちの証言がいる」
ゴルドが起き上がった。背中の切り傷から血が伝っているが、顔色は変わらない。三百年を生きてきた老人だ。何度も命を狙われたことがあるのだろう。手が震えていない。
セリアが薬草を取り出し、傷口を手当てした。リーナに教わった辺境の薬草だ。ゴルドが育てた薬草が、ゴルドを守っている。
「毒は?」
ナギが短剣の刃を確認した。緑の液体。匂いを嗅ぐ。
「塗ってある。だがゴルドの傷は浅い。刃が肌を掠めただけだ」
ゴルドが血を拭きながら言った。
【ワシを殺そうとしたのか。まあ、声比べで負けたら殺されるのはゴブリンでも同じじゃ。だが、寝込みを襲うのは卑怯じゃな。ゴブリンでもこんな真似はせん】
トルクが暗殺者の外套を剥いだ。腰に革の鞘。その鞘に刻まれた紋章。牙が二本、交差している。
「牙の紋章だ」
グリムが部屋に入ってきた。暗殺者の顔を確認し、冷えた声で言った。
「こいつは軍務省の事務官だ。半年前にダリウスの推薦で配属された。もう一人は下級将校。三人目は傭兵崩れだ。兵舎の兵士名簿に名前がない」
証拠が揃っている。暗殺者。毒の短剣。牙の紋章。軍務省からの異動者。
ナギは将軍を叩き起こしに行った。
* * *
将軍の顔が鬼になった。
鷹のような目が暗殺者を射すくめ、拳が石壁を打った。
「儂の兵舎で。儂の管理下で。暗殺を仕掛けたと」
声が震えていた。怒りで。
ナギは暗殺者を一列に並べ、証拠を床に広げた。毒の短剣。牙の紋章の鞘。軍務省の異動辞令の写し。グリムの証言。
「将軍。ゴルドが暗殺されかけた。暗殺者は牙の紋章を持っている。手引きしたのは軍務省から異動で配置された兵士だ」
将軍は暗殺者を見下ろした。怒りの下に、別の感情があった。屈辱だ。自分の軍の名誉を汚された。自分の目の届く場所で、自分の部下が裏切った。
「陛下には報告しない」
ナギが目を上げた。
「しない?」
「この件は儂が直接調べる。ダリウスに察知されれば証拠を消される。軍務省の中に何人の工作員がいるか、まず洗い出す」
将軍がナギを見た。鷹の目が、初めてナギを対等な者として見ていた。
「追放者。お前が正しかったかもしれん。儂の足元が腐っていた」
ナギは答えた。
「将軍。俺は味方がほしい。法律で閉め出される前に、内側から鍵を開けてくれる人間が。ダリウスは法と制度を使って共存を潰そうとしている。俺にはそれに対抗する手段がない。だが将軍にはある」
将軍は長い沈黙の後、頷いた。
「儂は軍人だ。王命に従う。だが偽りの王命には従わん。この件の真偽を確かめるまで、お前たちを守る。それが儂の判断だ」
ナギは感じた。将軍が本当に味方になる瞬間が、今この瞬間に訪れている。暗殺未遂が、皮肉にも最大の転機になった。
ゴルドが将軍を見上げた。百十センチの身長で、百八十センチの将軍を。
【大きな人間じゃ。声もでかそうじゃな。声比べしたら、いい勝負になりそうじゃ】
ナギが通訳すると、将軍の厳つい顔に微かな笑みが浮かんだ。一瞬だけ。すぐに消えた。
「暗殺者は儂が預かる。軍務省には報告しない。この件は儂が直接調べる」
将軍が踵を返した。靴音が廊下に響いた。
ナギは仲間を見渡した。トルクが血のついた大剣を拭いている。セリアが弓の弦を確かめている。グリムが壁にもたれて目を閉じている。ゴルドが背中の傷を気にもせず、椅子に座って林檎の残りをかじっている。
仔狼がナギの足元に擦り寄ってきた。ナギが頭を撫でた。
【よくやった。お前のおかげだ】
仔狼が短く鳴いた。小さな体だが、ファングの血を引く誇り高い獣だ。この仔狼を連れてきたのはナギの用心深さだった。辺境で学んだことがある。交渉の前に、まず生き残れ。
まだ始まったばかりだ。だが、味方が一人増えた。暗殺者を送ったダリウスは知らない。自分の刃が、将軍の怒りに火をつけたことを。




