市場の声
「隠れたら負けじゃ」
ゴルドが兵舎の裏口で宣言した。朝日が石壁に当たり、ゴルドの緑の肌を照らしている。
ナギは昨夜の将軍との会談の結果を伝えた。将軍は拘禁を一日だけ遅らせると約束してくれた。ダリウスへの借りを一つ作る代償で。つまり、今日一日だけ猶予がある。
「市場に出る。ゴルド、一緒に来てくれ」
【当然じゃ。ワシは声比べで鍛えた喉がある。人間の市場ぐらい、声で制圧してやるわい】
トルクが大剣を背負った。
「護衛は俺とセリアで十分だろ。グリムは?」
グリムは壁にもたれたまま首を振った。
「俺が出れば商団に気づかれる。兵舎で情報を整理しておく」
四人で兵舎を出た。変装はしない。ナギはゴルドにそう提案した。ゴルドは当然だと言わんばかりに胸を叩いた。
【ワシが顔を隠してどうする。300年生きた面構えを見せてこそ、ゴブリンの外交じゃ】
緑の肌を朝日にさらし、白い頭髪を風に揺らして、ゴルドは王都の大通りを歩いた。百十センチの背丈が、十五万都市の石畳を踏んでいる。
* * *
王都の市場は辺境のそれとは比べ物にならなかった。石畳の広場に百を超える露店が並び、野菜、果物、魚、干し肉、布地、陶器、金物が所狭しと積まれている。朝から人が溢れ、声が飛び交い、硬貨の音が鳴っていた。
その全てが、一瞬で止まった。
ゴルドが市場の入口に現れた瞬間、最前列の女が悲鳴を上げた。
「ゴブリンだ!」
連鎖的に叫び声が広がった。店を閉める者。子供を抱えて走る者。露台の裏に身を隠す者。市場の半分が五秒で空になった。
ゴルドは動じなかった。
小さな足で石畳を踏み、空になった露台の間をゆっくり歩いた。果物屋の前で立ち止まった。棚に林檎が並んでいる。赤い皮が朝日を浴びて光っていた。ゴルドが手を伸ばし、一つを持ち上げた。
【これは良い色じゃ。ゴブリンの森にも林檎はあるが、ここまで赤くはならん。いくらだ?】
もちろん市場の人間に魔物語は通じない。ゴルドの口から漏れたのは、喉の奥から絞り出すような、人間の耳には意味不明な音の連なりだ。
だがナギがいる。
「この林檎はいくらですか、と聞いています」
果物屋のおばさんは露台の下に隠れていた。顔だけを出して、ゴルドを見ている。目が合った。
ゴルドの目は穏やかだった。好奇心に満ちた老人の目。三百年を生きた者の、温かい眼差し。
おばさんの喉が動いた。
「に、二銅貨だよ」
ゴルドは懐を探った。硬貨は持っていない。代わりに、小さな袋を取り出した。細かい編み細工の小袋。ゴブリンの森で採れる蔓草を、三日かけて編んだ手仕事だ。掌に乗る大きさだが、編み目は精緻で、人間の職人でも簡単には真似できない。
【金はないが、これと交換でどうじゃ】
ナギが通訳した。
「この編み細工と交換したいそうです」
おばさんが恐る恐る手を伸ばし、編み細工を受け取った。指先で編み目をなぞる。しげしげと見つめる。
「……綺麗だね。こんな細かい仕事、あたしゃ見たことないよ。これをゴブリンが作るのかい?」
ナギが通訳すると、ゴルドは胸を張った。
【ゴブリンの手仕事を舐めてもらっては困る。ワシの部族には100人の編み手がおる。もっと大きいものも作れるぞ】
「百人の編み手がいるそうです。もっと大きいものも作れると」
おばさんが林檎をゴルドに差し出した。
「持っていきな。二銅貨なんていらないよ。この編み細工の方がよっぽど値打ちがある」
ゴルドが林檎を受け取り、かぶりついた。果汁が緑の顎を伝った。
【うまい。人間の林檎はうまいな】
ナギが笑った。通訳する必要もなかった。ゴルドの顔が全てを語っていた。
* * *
騒動は小一時間で収まった。
逃げていた人間が少しずつ戻ってきた。遠巻きにゴルドを見ている。恐怖と好奇心が半々だった。
ゴルドは気にしない。露台を一つずつ回り、品物を手に取り、ナギに通訳させて質問した。
【この魚はどこで獲れた。川か、海か】
「南の海だよ。塩漬けにして三日かけて運んでくる」
【三日か。ゴブリンの森にも川魚はあるが、海の魚は食べたことがない。今度交換しようではないか】
布屋では織りの技法について三十分語り合った。陶器屋では釉薬の原料を尋ね、ゴブリンの森で採れる鉱石の話を返した。商人たちは最初こそ怯えていたが、自分の商品について聞かれると、つい答えてしまう。職人の性だ。
ゴルドは聞き上手だった。相手の話に耳を傾け、うなずき、感心の声を上げる。言葉が通じなくても、態度は伝わる。
トルクが市場の端で腕を組んでいた。
「あの爺さん、すげえな。戦わずに制圧してやがる」
セリアが隣で微笑んだ。
「ナギと同じことしてるのよ。相手の得意なことを聞く。それだけで壁が溶ける」
子供が一人、ゴルドの前に走り出てきた。五歳くらいの男の子。母親が慌てて追いかけるが、間に合わなかった。
子供がゴルドの顔を覗き込んだ。
「おじいちゃん、なんで緑なの?」
ゴルドが目を丸くした。そしてナギを見た。
【この小僧、度胸があるな。通訳しろ】
ナギが屈んで子供に伝えた。
「このおじいちゃんはゴブリンだから緑なんだ。おじいちゃんは逆に聞いてるよ。お前さんがなんで肌色なのか、ワシの方が不思議じゃ、って」
子供が笑った。
「変なの!」
その笑い声が、市場に広がった。凍りついていた空気に、小さな亀裂が入った。
母親がゴルドに頭を下げた。「すみません、この子ったら」。おばさんが林檎をもう一つ差し出した。隣の魚屋が干し魚を包んで渡した。干物屋の親父が近寄ってきて、ゴルドの編み細工をじっと見つめた。
「なあ兄さん。このゴブリンの爺さんに聞いてくれ。この編み方、うちの籠にも使えるか?」
ナギが通訳した。ゴルドは得意げに頷いた。
【もちろんじゃ。蔓の太さを変えれば、籠でも帽子でも作れる。ゴブリンの編み技は万能じゃぞ】
壁が溶け始めている。少しずつ。ほんの少しずつ。千年分の壁を一日で壊すことはできない。だが一日で入れる亀裂は、確かにあった。
だが遠くから、それを見ている一団がいた。
大通りの角。目立たない灰色の外套。三人の男が市場を監視している。一人が早足で路地に消えた。
軍務省の裏手。男が扉を叩いた。
「次官様。追放者とゴブリンが市場に出ています。民衆と接触しています」
ダリウスは書類から顔を上げなかった。軍務省次官の執務室。壁に掛けられた王国の地図。辺境には赤い印が複数打たれている。
細い指がペンを置いた。
「効果は」
「一部の民衆が態度を軟化させています。果物屋の女がゴブリンと交換取引を始めました。子供が一人、ゴブリンに近づきました」
ダリウスの目が細まった。冷たい光が瞳の奥で揺れた。この男は怒りを表情に出さない。だが声の温度が一段下がった。
「追放者は愚かだが、手は速い。世論が動く前に潰す。拘禁では遅い」
「では」
「ゴブリンを消せ。暗殺ではなく、事故に見せかけろ。追放者は生かしておけ。使者を殺された人間として、利用できる」
部下が頭を下げ、退室した。
ダリウスは窓の外を見た。市場の方角。賑わいの声が微かに聞こえる。
「予定を早める。今夜だ」




