王都の壁
「侵略者だ」
声は一つではなかった。大通りの両脇、石畳に面した窓という窓から、人の気配がにじみ出ている。カーテンの隙間。扉の影。そして、通りに直接立っている者たち。
王都セルディオン。人口十五万。アルディア王国の心臓部。ナギが斥候隊で最初に地図を覚えた街だ。
だが迎えてくれたのは、沈黙だった。
城門を抜けた瞬間、大通りの空気が凍った。好奇心より恐怖が勝っている。子供が母親の背に隠れた。商人が店の戸を閉めた。兵士が槍を強く握った。
ナギの横を歩くゴルドは、背筋を伸ばしたままだった。緑の肌。白い頭髪。左耳の骨飾りが陽光を反射している。百十センチの小さな体が、大通りの真ん中を堂々と歩いている。
「ゴブリンだぞ……」
「魔物を連れてきやがった」
「魔王の末裔が王都に来るなんて——」
石は飛ばなかった。だが冷たい視線が壁のように立ちはだかった。
トルクが小声で言った。
「嫌な空気だな。辺境で魔物に囲まれた時の方がまだ温かかったぜ」
セリアが弓の位置を確かめながら応じた。
「人間の方が怖いってこと? あたしもそう思い始めてる」
ガレス将軍が先頭を歩いていた。鷹のような目が大通りを見渡す。群衆を押し留めているのは、将軍の威圧感だった。
「黙って歩け。宿舎に着くまで口を開くな」
ナギは頷いた。余計なことを言えば、群衆の空気が揺れる。今はそれが一番まずい。
だが目は止まらなかった。大通りの壁に貼られた紙。墨で書かれた文字。
「魔王の末裔を追い出せ」
「ゴブリンは人を喰う」
「橋守の里は魔物の巣窟」
牙の商団の仕事だ。ナギは唇を噛んだ。王都に着く前から、世論が作られていた。
* * *
宿舎は城の外れの兵舎だった。石造りの質素な建物。窓は小さく、壁は厚い。守りやすいが、出にくい。半分は保護で、半分は監視だった。
将軍が告げた。
「王への謁見は3日後だ。それまで勝手な行動は許さん。民衆を刺激するな」
「三日」
「儂の裁量で確保した。本来ならダリウスが門前払いにするつもりだった」
将軍は背を向けた。「信用しすぎるなよ。儂も軍人だ。王命があれば、お前を捕らえる側に回る」
靴音が遠ざかり、扉が閉まった。鍵の音はしなかった。それが将軍なりの誠意なのか、それとも逃げ場がないことの証明か。
ナギは窓際に立った。王都の街並みが広がっている。煉瓦の屋根。石畳の路地。鐘楼の影が夕日に長く伸びている。辺境とは何もかもが違う。整然として、隙がない。
ゴルドが窓の縁に手をかけた。百十センチでは窓に届かない。トルクが無言で椅子を運んできた。ゴルドが椅子に登り、王都を眺めた。
【ナギ。人間の街は——壁が多いな】
ナギは魔物語で返した。
【壁?】
【家にも壁がある。道にも壁がある。そして——心にも壁がある。ゴブリンの森には壁がない。木はあるが、壁はない。人間は壁で自分を守るのか】
ナギは黙った。壁を壊すのではなく、壁の向こうに声を届ける方法を考えなければならない。
三日。たった三日で千年分の壁を崩すなど、普通なら不可能だ。だが普通でないことなら、ナギはこれまでも何度もやってきた。
グリムが壁にもたれていた。腕を組み、目を閉じている。だが眠ってはいなかった。
「ダリウスは三日も待たない」
ナギが振り返った。
「根拠は?」
「俺は牙の商団にいた。ダリウスは計画の人間だ。お前たちが王都に入った時点で、三手先まで打っている。ゴルドの拘禁。証言の封殺。世論の固定化。三日あればどれも完了する」
セリアが眉を寄せた。
「じゃあ、あたしたちは檻の中で三日待つだけ?」
「待てば負ける」
グリムが目を開けた。暗い目だった。だが以前のような敵意はない。代わりにあるのは、冷えた現実認識だった。
「ダリウスは軍務省次官だ。軍事は将軍の管轄だが、内政は軍務省。ゴルドを『危険な魔物』として拘禁する法的根拠を、今頃作っているはずだ」
ナギは拳を握った。力ではなく、制度で閉め出される。殴れない壁だ。
トルクが大剣を壁に立てかけ、ベッドに腰を下ろした。
「で、どうする。お前の得意な交渉とやらは、法律相手にも効くのか」
ナギは窓の外を見た。夕日が王都の屋根を赤く染めている。
「法律の壁は壊せない。だが——壁の向こうにいる人間には、声が届く」
ゴルドが椅子の上で鼻を鳴らした。
【人間の壁は声で壊すものじゃ。声比べなら、ワシに任せい】
ナギは微かに笑った。
* * *
夜が深まった。
兵舎の灯りが落ちた。トルクが交代で見張りに立ち、セリアが弓を枕元に置いて眠った。ゴルドは椅子の上で丸くなっている。グリムは壁際で目を閉じたまま動かない。
ナギだけが起きていた。窓から月を見ている。辺境の月は大きかった。王都の月は同じ大きさのはずなのに、建物に囲まれて小さく見える。
裏口を叩く音がした。
三回。間を置いて二回。ナギが短剣を握り、扉に近づいた。
「ナギ。俺だ」
マルコの声だった。
扉を開けた。マルコが息を切らしていた。額に汗。軍服の襟が乱れている。
「悪い知らせだ」
「入れ」
マルコは中に滑り込んだ。トルクが大剣に手をかけたが、ナギが制した。
「味方だ。元同僚の」
マルコが膝に手を置いて息を整えた。
「ダリウスが王に進言した。『魔物の使者は信用できない。謁見の前に身体検査と拘禁が必要だ』と。王は——検討中だ」
拘禁。ゴルドが捕まれば、交渉の場に立てない。
「将軍は?」
「反対した。だがダリウスは軍務省次官だ。軍事に関しては将軍の管轄だが、内政は軍務省の管轄になる。法的にはダリウスの方が権限がある」
グリムが壁から身を起こした。
「言っただろう。三手先だ」
ナギの拳が握りしめられた。法律。制度。手続き。辺境では通じなかった壁が、王都では最強の防壁になる。魔物と戦う方がまだ分かりやすい。だが——
「マルコ。王は検討中と言ったな。まだ決まっていないんだな」
「ああ。明日の午前中に決裁すると聞いた」
午前中。半日しかない。
ナギは仲間を見渡した。トルクの鋭い目。セリアの真っ直ぐな視線。ゴルドの骨飾り。グリムの冷えた現実認識。
「将軍に会いに行く。今夜。法律で閉め出されるなら——法律の外で動くしかない」
マルコが目を見開いた。
「勝手な行動をするなと——」
「将軍はそう言った。だが、将軍もダリウスを止められなかった。なら将軍にも、法律の外からの手が必要だ」
ナギは短剣を腰に差した。
「マルコ。将軍の私邸の場所を教えてくれ」
マルコは唇を噛んだ。軍規違反だ。上官の私邸の場所を部外者に教えるなど、発覚すれば軍法会議にかけられる。
だが、マルコはナギを追放する時に止められなかった男だ。あの日から、ずっと悔いている。
「ついてこい」
ナギは兵舎の裏口から夜の王都に踏み出した。月が細い。路地は暗い。石畳に靴音が響く。
セリアが隣を歩いていた。弓を背負い、赤銅色の髪が夜風に揺れている。
「止めないのか」
「止めてほしい?」
「いや」
「なら聞かないで。あたしは狩人よ。獲物を追う時に立ち止まらない」
ナギは前を向いた。




