魔王の遺言
「あの壁の向こうに、ワシを殺したい人間が何千人もおるのか」
ゴルドが震えていた。小さな身体。深緑の肌。大きな尖り耳。白くなった頭髪。骨飾りが風に揺れている。
王都セルディオンが目の前にあった。石造りの城壁。高さ十メートル。見上げるような城門の塔。行き交う人々の声が壁の向こうから聞こえてくる。十五万人の都市。ゴルドが生まれてから見た人間の数を、一つの都市が超えている。
ナギは首を振った。
「殺したいんじゃない。怖いんだ。お前を知らないから」
ゴルドが目を閉じた。深い皺が刻まれた顔。三百年の人生で、最も遠い場所に来ている。
【ワシらと同じじゃな。ワシらも人間が怖かった。知らなかったから。深緑の森から出ることもなく、人間を恐れ、森の奥に隠れていた。半年前、お前が来るまで】
「だから知ってもらう。お前の声で。お前の言葉で」
【ワシの声は小さいぞ。ゴブリンの長老の声は、人間には聞こえんかもしれぬ】
「俺が訳す。お前の言葉を、人間の言葉に。それが俺の仕事だ」
ゴルドが目を開けた。骨飾りを握りしめた。三つの骨飾り。部族内での発言回数を示す勲章。ゴルドは生涯で最も多くの声比べに参加した長老だ。
【よし。ワシは長老じゃ。声比べなら負けたことがない。人間が相手でも、同じじゃ】
トルクが大剣を確認した。
「入るぞ。気を引き締めろ」
セリアが弓弦を張り直した。
「いつでもいける」
グリムが手首の縄を見つめた。
「帰ってきちまったな。この街から逃げ出した俺が」
* * *
城門の前。将軍の護衛が道を開けた。将軍自身が先頭に立ち、一行を導く。
城門の衛兵が将軍に敬礼した。だが将軍の後ろを歩く一行を見て、目を見開いた。
「将軍。あの緑色の、あれは」
「儂の客人だ。手を出すな」
門をくぐった。城壁の内側。石畳の広い通り。両側に建物が並び、人が行き交っている。市場の喧騒。馬車の音。革靴が石畳を叩く音。ナギが追放されて以来、初めての王都。
だが今は景色を見ている暇がなかった。
民衆がゴルドに気づいた。
最初は二人。振り返った男が叫んだ。
「魔物だ!」
その声が伝播した。十人、五十人、百人。通りの人間が立ち止まり、ゴルドを見た。悲鳴を上げる者。石を拾う者。子供を抱えて逃げる者。
一人の男が石を投げようとした。腕を振り上げた瞬間、ナギがゴルドの前に立った。
「この方は、深緑の森のゴブリン族の長老ゴルドだ。人間と魔物の共存を話し合うために来た。石を投げる前に、話を聞いてくれ」
男の腕が止まった。ナギの目を見たからだ。追放者の目。だが真剣な目。嘘のない目。半年前に王都を追われた男の目だった。だが逃げ帰った者の目ではなかった。何かを持ち帰った者の目だった。
「お前は誰だ」
「ナギ。辺境の追放者だ。魔物と話せる。魔物語というスキルを持っている」
「魔物語? 獣語りの呪いか。二百年前の反乱の」
「呪いじゃない。言葉だ。あの反乱も、真実は違う。記録が改竄されている。魔物も人間と同じように話し、考え、暮らしている。それを知ってもらいたくて来た」
男は石を降ろした。だが信じてはいなかった。疑惑の目でゴルドを見ている。周囲の群衆も同じだった。恐怖が好奇心に変わり始めているが、信頼にはほど遠い。
ゴルドがナギに魔物語で語りかけた。
【ナギよ。ワシの言葉を訳してくれ。こう言いたい。「ワシは長老だ。部族で最も年を取った者だ。孫が13人いる。キノコ農園を営んでいる。人間を殺しに来たのではない。話をしに来た」】
ナギが訳した。民衆の一部が首を傾げた。ゴルドの声が本当に言葉なのか、確かめるように。
別の女が声を上げた。
「本当に通じてるの? 適当に言ってるんじゃないの?」
ナギはゴルドに聞いた。
「ゴルド。あの女性が、本当に通じているのか疑っている。何か、俺だけが知り得ないことを言ってくれ」
ゴルドが周囲を見回した。目を細めた。
【あの女の足元に猫がおる。茶色い猫。尻尾の先が白い。猫はワシを見て毛を逆立てておるが、逃げてはおらぬ。好奇心が恐怖を上回っておるのじゃ。人間も同じじゃと思うのだがな】
ナギが訳した。女が足元を見た。確かに茶色い猫がいた。尻尾の先が白い。毛を逆立てているが、逃げていない。
女が目を丸くした。
「本当だ。通じてる。この魔物、本当に話してる」
ざわめきが広がった。恐怖と好奇心が混在している。石を投げようとした男が、ゆっくりと石を地面に置いた。
将軍の護衛が道を作り、一行は通りを進んだ。民衆が両側に並んで見つめている。恐怖の目。好奇心の目。敵意の目。そして、ごく少数だが、理解しようとしている目。
ゴルドは背筋を伸ばして歩いた。身長百十センチの小さな老人。だが長老としての威厳があった。骨飾りが揺れるたびに、軽い音がした。
* * *
通りの奥。建物の影から、一人の男が冷たい目で一行を見つめていた。
痩せた長身。黒髪を丁寧に分けている。文官の装い。袖の裏に牙の紋章を刻んだ腕輪を隠している。
軍務省次官ダリウス。
隣の部下に囁いた。
「王の御前に出す前に始末しろ。ゴブリンを。暗殺ではなく事故に見せかけろ。人混みの中なら方法はいくらでもある」
「承知しました」
部下が人混みに消えた。ダリウスは一行が通り過ぎるのを見送った。目が細い。感情がない。千年間受け継がれてきた使命を、粛々と遂行する男の目だ。
「千年前と同じだ。架け橋はまた橋を架けようとする。そして、また折れる。千年間、我々はそうやって秩序を守ってきた。今回も同じだ」
* * *
ナギは城門をくぐりながら、背筋に冷たいものを感じた。視線だ。群衆の好奇心とは違う、刃物のような視線。どこかから見られている。だが振り返らなかった。今は前を向く。
ナギはゴルドに魔物語で囁いた。
【ゴルド。ここから先が本当の交渉だ。千年分の溝を言葉で埋める。俺一人じゃ無理だ。お前の声がいる】
ゴルドが背筋を伸ばした。骨飾りが光った。
【ワシは長老じゃ。声比べなら負けたことがない。人間が相手でも同じじゃ】
ナギは空を見上げた。王都の空は辺境より狭い。建物が空を区切っている。だがこの狭い空の下で、歴史が変わる。
魔王ザルグの遺言が胸に響いていた。
力で橋を架けるな。言葉で架けろ。
ナギは言葉で架ける。千年前の魔王が折った橋を、もう一度。辺境から王都まで。魔物と人間の間に。
セリアが隣を歩いていた。弓を背負い、周囲を警戒している。狩人の目だ。群衆の中に敵意がないか、一人ひとりの手元を見ている。手が触れた。指は絡めなかった。ここは王都だ。だが触れた指の温もりが、ナギの背中を押していた。
トルクが大剣の柄に手を置いたまま、周囲を警戒していた。
「いい街だな。ろくな思い出はないが」
「今度は良い思い出を作ろう」
「そうだな。生きて帰れたらな」
ゴルドが二人を見上げた。
【人間は変な生き物じゃな。笑いながら怖いことを言う】
ナギは笑った。怖かった。だが笑った。




