出発の朝
「帰ってこい。橋はこちら側の岸で待っている」
ボルガがナギの肩を叩いた。オークの手は大きくて重い。肩が軋んだ。だが温かかった。
出発の朝。里の門前に全種族が集まっていた。ゴブリン三百、オーク八十、森狼族四十、スライムの群体、深淵蟲の使者たち。そしてハグレ村から避難してきた百人の村人。
ナギはトルク、セリア、ゴルドを連れて王都に向かう。グリムも同行する。将軍の護衛つきで。
出発の準備は入念だった。ナギが不在の間、里は六族の手に委ねられる。
ボルガが里の防衛を指揮する。オークの戦闘班が防衛陣地に配置され、石壁の補強も完了している。
「ボルガ。万が一、軍が動いたら」
【戦わずに退く。お前の方針に従う。だが追い込まれたら別だ。その時は、ワシの判断で動く】
「わかった」
ファングが偵察網を維持する。森狼族の群れが里の周囲半日圏に散り、異変を即座に報告する体制だ。ファングがナギの手を舐めた。冷たい舌。
【帰ってこい。群れの匂いを持って帰ってこい】
スライムの群体知性が行政を管理する。食料配分、水の管理、建設計画の進行。全てを数字で管理する。群体知性に感情はないが、仕事は完璧だ。
【ナギ不在時の運営マニュアルを作成済み。全47項目。異常値が発生した場合の対応フローも含む。心配は不要だ】
「ありがとう」
【等価交換だ。お前が王都で成功すれば、里の安全が確保される。それが我々への見返りだ】
深淵蟲の使者が女王との通信を維持する。裂け目を通じたフェロモン信号で、女王と里の間の情報がリアルタイムで共有される。
リーナが蟲の品種改良技術の研究を続ける。暗殺者から摘出した蟲の標本を分析し、牙の商団の技術の解明に取り組む。
「ナギさん。王都から帰ってきたら、研究結果を報告しますね。蟲の品種改良に使われている技術、かなり高度です。これを解明すれば、逆に蟲人族の生態改善に応用できるかもしれません」
「楽しみにしてる」
ヴェルクが里に残り、将軍の陣営との窓口になる。かつてナギを追放した男が、今はナギの代理として里を守る。皮肉だが、これ以上に適任はいない。軍の論理を知り、将軍との信頼関係がある。
「ナギ。王都は危険だ。軍務省の中に商団がいる。お前が王都に入った瞬間、ダリウスが動く。あの男は千年分の冷酷さを持っている。個人的な感情はない。使命として、お前を排除しようとする」
「わかっている」
「マルコが先行して王都の状況を探っている。到着したら連絡が来るはずだ。慎重に動け」
「ヴェルク。お前こそ、無茶するなよ」
「私は元来、保身的な男だ。無茶はしない。ただし、守るべきものがある時は別だが」
二人は握手した。二度目の握手だった。最初の握手は、ヴェルクがナギの元を去る時だった。あの時は借りを返す男の手だった。今は、同じ側に立つ男の手だった。
「ナギ。一つだけ。王都に着いたら、軍務省の北棟には近づくな。あそこはダリウスの領域だ。文書庫と牢獄が直結している。入ったら出られない」
「覚えておく」
* * *
里の門を出た。ナギ、トルク、セリア、ゴルド、グリム。五人の一行。将軍が手配した騎馬隊十騎が護衛につく。
六族の里が背中に小さくなっていく。ゴブリンの子供たちが門の上から手を振っていた。蟲人族の使者の触角が青白く明滅している。遠吠えが聞こえた。ファングの群れだ。門柱に寄りかかったボルガの姿が見えた。腕を組んで、ナギの背中を見送っている。オークは手を振らない。だがその姿勢に、全てが込められていた。
リーナが門の脇で手を振っていた。
「ナギさん。気をつけて。研究の成果、帰ってきたら見せますから」
ナギは手を振り返した。半年前、この門をくぐった時は、追放者が一人で立っていた。今は五百を超える命がこの門の内側にいる。守るべきものが増えた。それは重荷ではなく、力だった。
ゴルドが何度も振り返った。
【ナギよ。ワシがこの里を離れるのは、生まれて初めてじゃ。ゴブリンは群れを離れない。離れるのは追放された者だけだ】
「お前は追放されたんじゃない。代表として選ばれたんだ」
【代表か。重い言葉じゃな。だが、ワシの声がゴブリンの声だと思えば、怖くはない】
トルクが大剣を背に調整しながら歩いていた。
「王都か。久しぶりだな。最後に行ったのは十年前だ。ろくな思い出がない」
「何があったんだ」
「パーティの仲間を全員失った後、王都で酒浸りになっていた。路地裏で喧嘩して、牢に入れられた。それで辺境に流れてきた」
「いい思い出だな」
「ろくな思い出がないと言っただろう」
セリアが二人の間を歩いていた。弓を背負い、矢筒を腰に。
「あたしは王都に行ったことない。大きいんでしょ?」
「人口15万だ。ハグレ村の750倍」
「想像つかない。あたし、方向音痴なの。迷子になったらどうしよう」
「俺が案内する」
「あんたも追放されてから一回も行ってないでしょ」
「地図は頭に入っている。斥候だったからな」
グリムが一行の後ろを歩いていた。手首を縄で緩く縛られている。形式的なものだ。グリムは逃げる気がなかった。
「架け橋よ。王都に着いたら、俺は証言する。千年分の秘密を全て。だが覚悟しておけ。ダリウスは俺の話を聞けば、全力で潰しに来る」
「わかっている」
「わかっていない。お前はまだ、あの男の怖さを知らない。千年分の冷酷さが、あの男には詰まっている」
* * *
王都への道中。将軍の騎馬隊に挟まれて歩く一行。ゴルドが初めて見る大陸中部の風景に目を丸くしている。
【ナギよ。人間の土地は広いな。こんなに広い場所に住んでおるのか。森も丘も、全部人間のものか】
「全部じゃない。辺境には魔物の土地もある。だが大陸の大部分は人間が支配している」
【三百年前、ゴブリン族がこの辺りまで領域を持っていたと、伝承にある。今は影も形もない。人間に追われたのじゃ】
ゴルドの声に悲しみはなかった。事実を述べているだけだ。だがその事実の重さがナギの胸に響いた。
三日目の夜。マルコが密かにナギの天幕を訪れた。
「先行した密偵から連絡があった。王都では、ナギが来ることがすでに知られている」
「商団が流したのか」
「ああ。噂が広まっている。『魔王の末裔が軍を率いて王都に攻めてくる』と」
ナギの拳が握りしめられた。交渉の前に世論を操作されている。王都に着いた時、民衆の目にナギは「侵略者」として映る。
「言葉で橋を架ける。だが、聞く耳を持たない相手に、言葉は届くのか」
マルコが静かに言った。
「届くさ。お前の言葉は、辺境の兵士にも届いた。門前で座り込んでた時、兵士たちの目が変わっただろう。王都の民衆だって同じ人間だ」
ナギは頷いた。だが胸の奥に不安が残った。辺境の兵士は数十人だった。王都の民衆は十五万人だ。
セリアが隣で眠っていた。馬の背に揺られながら器用に眠れる女だ。ナギはその寝顔を見て、小さく笑った。この女を守らなければならない。仲間を。六族を。千年の約束を。
夜空に星が広がっていた。辺境の星空とは違う。王都に近づくにつれ、空が狭くなっていく。人間の土地は広いが、空は狭い。
遠くに、王都の城壁が霞んで見え始めていた。




